瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ。 せおはやみいわにせかるる

百人一首かるたの歌人エピソード~史上最凶の怨霊から最強の守護神になった、崇徳院のお話 ⋆ MUSBIC/ムスビック

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

100] 小倉山荘では、2000年~2002年にかけて、『ちょっと差がつく百人一首講座』と題したメールマガジンを発行しておりました。 『小倉百人一首』の中から毎回一首ずつ、100回完結の形式で発行いたし、たくさんの方々に愛読いただいておりました。 この度愛読者様からのご要望にお答えし、バックナンバーを作成いたしましたのでおせんべいを召し上がりながらゆったりくつろいでご覧ください。 尚、マガジンの記載内容につきましては発行時点(2000年~2002年)のものであること、お問い合せ等にはお答えできかねますことを重ねてご了承くださいませ。 2月4日は立春でした。 時間の過ぎゆく速さにはいつも驚かされます。 暦の上ではもう春なんですね。 それにしても1月下旬から寒さが特に厳しくなり、依然として雪が降ったり凍るような風が吹いたりしている毎日です。 山に掛かる雲も、輪郭がぼやけ、綿菓子のような形のをよく見かけるようになりました。 輪郭があいまいなのは、雪を降らせる雲の特徴。 山頂部は激しい雪が降っていることでしょう。 今は全国的にインフルエンザが大流行しているようですし、とても春に近づいた様子がない、というのが正直なところ。 しかし気がつくと日の暮れがすこしづつ遅くなっています。 そういうところに、かすかな春の気配を感じる、といったところでしょうか。 長い不況が続いており、海外ではテロや戦争の噂まであります。 今の時期は誰しもに厳しい「冬」にもたとえられるでしょうが、長い冬は暖かい春への準備だとも言えるでしょう。 月の半ばごろからは、梅の便りも届くでしょうし。 暖かい春を目指して準備を怠りなく過ごしたいものです。 最終回は、鳥羽天皇の第一皇子・崇徳院が詠んだ再会を待つ一首です。 「~を+形容詞の語幹+み」と続くと、「~が・形容詞・なので」と理由を表す言葉になります。 ここでは「川の瀬の流れが速いので」という意味です。 【岩にせかるる 滝川(たきがは)の】 「せかる」は「堰き止められる」という意味の動詞「せく」の未然形で、後に受動態の助動詞「る」が付きます。 「滝川」は、急流とか激流という意味です。 上の句全体が序詞で、下の句の「われても」に繋がります。 【われても末(すゑ)に】 「われ」は動詞「わる」の連用形で、「水の流れが2つに分かれる」という意味と「男女が別れる」という意味を掛けています。 「ても」は逆接の仮定で、「たとえ~したとしても」という意味ですので「2つに分かれてたとしても後々には」という意味になります。 【逢はむとぞ思ふ】 「水がまたひとつに合う」のと「別れた男女が再会する」の2つの意味を掛けています。 「きっと逢いたいと思っている」という意味です。 定家の父)に命じて編纂させた「久安百首」に載せられた一首です。 山の中を激しく流れる川の水が、岩に当たって堰き止められ、岩の両側から2つに分かれて流れ落ち、再びひとつにまとまる。 その様子を離ればなれになった恋人への想いに重ねて詠う激しい一首です。 「障害を乗り越えても必ず逢おう」という気持ちが込められており、激しく燃えさかる情熱と、強烈な決意のようなものが感じられます。 もちろんこの歌は恋の歌です。 しかし歌の作者・崇徳院は、18年間位についたものの、当時の鳥羽上皇に強引に譲位させられます。 さらに息子・重仁親王を天皇にと願ったものの、やはり上皇の考えで後白河天皇に位を奪われます。 そして上皇の死後、後白河天皇と、どちらの皇子を天皇にするかで争って破れたのが「保元の乱」でした。 後世には、崇徳院の不遇な生涯とこの歌を結びつけ、強引に譲位させられた無念の想いが込められている、と解釈する研究者もいます。 それほど激しい想いを感じさせる歌でもあります。 崇徳院は乱に破れて讃岐国松山(現在の香川県坂出市)に流された後、後白河天皇を呪い、ヒゲや爪を伸び放題に伸ばして恐ろしい姿になりました。 調べに訪れた朝廷の使いは「生きながら天狗と化した」と報告し、また今昔物語では西行が讃岐を訪れた際に怨霊となって現れます。 さほどの激しい人が詠んだ歌で、「瀬」や「岩」といった強烈な語句も見えます。 しかし、戦乱の世を知らない我々は、離ればなれになった恋人との再会を誓う歌として詠むのがロマンチックでしょう。 拉致問題で北朝鮮から帰還した人々も、一時は今生の別れを覚悟したかもしれません。 しかし、生きてさえいれば、また喜ばしい再会がめぐってくることもあるでしょう。 この一首は、そういう希望を詠んだ歌ではないでしょうか。 崇徳上皇が流された讃岐の地は、現在の香川県坂出市。 瀬戸内海を望む海辺の街で、本州と四国を結ぶ、瀬戸大橋の基点です。 坂出市の崇徳上皇ゆかりの史跡には、流された上皇が暮らした「雲井御所」(林田町)や、遺体が葬られた白峯山などがあります。 最近は、コシがあって柔らかく、しかも100円ほどで食べられる「讃岐うどん」がブームのようです。 古の別離に想いをはせながら、グルメ旅行に訪れられるのも一興でしょう。 当メールマガジンは、おかげさまで本号で100号を迎え、百人一首すべてを紹介し終えました。 ここで一応終刊号とさせていただきます。 最後までご愛読いただいた約1100人の読者の皆様、ありがとうございました。 崇徳院のように怨霊にはならないでしょうが、一抹の寂しさはございます。 しかし、分かれてまたひとつに合する滝川のように、またいつの機会かお目にかかることを期待し、皆様が健やかに日々を過ごされることを希求しております。

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77 瀬をはやみ〜 |歌の意味・解説・翻訳【百人一首】

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

百人一首に親しんでいる人に「百人一首ではどの歌が好き?」と聞くと、崇徳院(すとくいん)の「瀬をはやみ」という答えが返ってくることが多く、インターネットの人気ランキングでも崇徳院の歌は好まれているようです。 ) 今は別れている二人だけれど、どんな障害をも乗り越えて、必ずこの恋を成就してみせる。 祟徳院二十代の頃の作品と言われる、激しい恋の歌です。 「 せをはやみ いわに せかるるたきがわの・・・」 と、サ行音の重なりが皮膚感覚に心地よく、爽やかな流動感を感じます。 しかし、この歌の作者の崇徳院は歴史好きの方ならご存知のように、 日本の大魔王といわれて恐れられた特異な人物なのです。 崇徳院の悲劇の生涯(1119~1164) 第七十五代天皇。 鳥羽天皇第一皇子。 白河法皇は璋子を幼女の頃から寵愛しており、璋子入内 じゅだい 後も関係が続いていたとも言われています。 そのため父鳥羽天皇からは「叔父子 おじご 」と呼ばれて忌み嫌われ疎まれており、出生時から悲劇の一生を送る運命を背負っていました。 父鳥羽天皇の譲位を受けて、五歳で即位した崇徳天皇ですが、鳥羽院政の時代に入ると皇位継承をめぐる対立が生じます。 天皇の兄という立場では院政は行えず、崇徳院は急速に力を失います。 近衛天皇の死後は自分の皇子の即位を望みますが、同母弟の後白河天皇の即位により望みは絶たれ、保元 ほうげん の乱を起こすに至ります。 しかし戦いに敗れて讃岐に流されることになり、二度と京の地を踏むことなく、憤怒のなか、四十六歳でその人生を終えました。 讃岐の白峰に流された崇徳院は、配流 はいる 先で写経を行い、これを朝廷に納経しようとしますが、呪いが込められているとの疑いを持たれ、朝廷から突き返されてしまいます。 崇徳院は怒りと絶望のあまり、「かくなるうえは、日本の大魔縁となって必ずや日本国を呪う」と、自分の舌の先を食いちぎって、滴る血で経典に呪いの言葉を書き記したとあります。 それからは髪や爪を伸ばし続け、生きながら天狗の姿となり、壮絶な死を遂げたと伝えられています。 大河ドラマなどで、悪鬼の形相で演じられる崇徳院の姿を思い出される方もおられるでしょう。 それ以降京都ではさまざまな事件が起こり、崇徳院の祟り たたり だとして怖れられたそうです。 その後は、菅原道真、平将門と並んで日本三大怨霊と呼ばれるまでになってしまいました。 崇徳院の鎮魂のために何ヵ所かに神社(下記)が建立されています。 ・白峰宮(香川県坂出市) ・崇徳天皇御廟(京都市東山区) ・白峯神宮(京都市上京区) ・安井金比羅宮(京都市東山区) 優しく繊細な崇徳院の和歌 幼少期から歌を好んだという崇徳院。 その作風は繊細優美、やさしい人柄が伝わってきます。 妖怪伝説は本当なのでしょうか。 花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける 五月雨に花橘のかをる夜は月すむ秋もさもあらばあれ もみぢ葉の散りゆく方を尋ぬれば秋も嵐の聲のみぞする 秋深みたそかれ時のふぢばかま匂ふは名のる心ちこそすれ うたたねは荻吹く風におどろけど長き夢路を覚むる時なき 思ひやれ都はるかに沖つ波立ちへだてたる心ぼそさを 西行の出家の原因は、美貌の妃璋子への叶わぬ恋ゆえなのか?『雨月物語』では、西行が怨霊となった崇徳院と対話する。 落語『崇徳院』は、ほほえましい若者の恋患いの物語。 崇徳院にまつわる物語はつきません。 (noren Rumiko.

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日本の大魔王「崇徳院」とはどんな人物なのか?

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百人一首に親しんでいる人に「百人一首ではどの歌が好き?」と聞くと、崇徳院(すとくいん)の「瀬をはやみ」という答えが返ってくることが多く、インターネットの人気ランキングでも崇徳院の歌は好まれているようです。 ) 今は別れている二人だけれど、どんな障害をも乗り越えて、必ずこの恋を成就してみせる。 祟徳院二十代の頃の作品と言われる、激しい恋の歌です。 「 せをはやみ いわに せかるるたきがわの・・・」 と、サ行音の重なりが皮膚感覚に心地よく、爽やかな流動感を感じます。 しかし、この歌の作者の崇徳院は歴史好きの方ならご存知のように、 日本の大魔王といわれて恐れられた特異な人物なのです。 崇徳院の悲劇の生涯(1119~1164) 第七十五代天皇。 鳥羽天皇第一皇子。 白河法皇は璋子を幼女の頃から寵愛しており、璋子入内 じゅだい 後も関係が続いていたとも言われています。 そのため父鳥羽天皇からは「叔父子 おじご 」と呼ばれて忌み嫌われ疎まれており、出生時から悲劇の一生を送る運命を背負っていました。 父鳥羽天皇の譲位を受けて、五歳で即位した崇徳天皇ですが、鳥羽院政の時代に入ると皇位継承をめぐる対立が生じます。 天皇の兄という立場では院政は行えず、崇徳院は急速に力を失います。 近衛天皇の死後は自分の皇子の即位を望みますが、同母弟の後白河天皇の即位により望みは絶たれ、保元 ほうげん の乱を起こすに至ります。 しかし戦いに敗れて讃岐に流されることになり、二度と京の地を踏むことなく、憤怒のなか、四十六歳でその人生を終えました。 讃岐の白峰に流された崇徳院は、配流 はいる 先で写経を行い、これを朝廷に納経しようとしますが、呪いが込められているとの疑いを持たれ、朝廷から突き返されてしまいます。 崇徳院は怒りと絶望のあまり、「かくなるうえは、日本の大魔縁となって必ずや日本国を呪う」と、自分の舌の先を食いちぎって、滴る血で経典に呪いの言葉を書き記したとあります。 それからは髪や爪を伸ばし続け、生きながら天狗の姿となり、壮絶な死を遂げたと伝えられています。 大河ドラマなどで、悪鬼の形相で演じられる崇徳院の姿を思い出される方もおられるでしょう。 それ以降京都ではさまざまな事件が起こり、崇徳院の祟り たたり だとして怖れられたそうです。 その後は、菅原道真、平将門と並んで日本三大怨霊と呼ばれるまでになってしまいました。 崇徳院の鎮魂のために何ヵ所かに神社(下記)が建立されています。 ・白峰宮(香川県坂出市) ・崇徳天皇御廟(京都市東山区) ・白峯神宮(京都市上京区) ・安井金比羅宮(京都市東山区) 優しく繊細な崇徳院の和歌 幼少期から歌を好んだという崇徳院。 その作風は繊細優美、やさしい人柄が伝わってきます。 妖怪伝説は本当なのでしょうか。 花は根に鳥は古巣に帰るなり春のとまりを知る人ぞなき 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける 五月雨に花橘のかをる夜は月すむ秋もさもあらばあれ もみぢ葉の散りゆく方を尋ぬれば秋も嵐の聲のみぞする 秋深みたそかれ時のふぢばかま匂ふは名のる心ちこそすれ うたたねは荻吹く風におどろけど長き夢路を覚むる時なき 思ひやれ都はるかに沖つ波立ちへだてたる心ぼそさを 西行の出家の原因は、美貌の妃璋子への叶わぬ恋ゆえなのか?『雨月物語』では、西行が怨霊となった崇徳院と対話する。 落語『崇徳院』は、ほほえましい若者の恋患いの物語。 崇徳院にまつわる物語はつきません。 (noren Rumiko.

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