こ せき ゆうじ 留学。 こせきほんやく

古関金子

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5000曲を世に送り出したといわれる日本が誇る大作曲家。 校歌もたくさん作っていて、福島県内109校と含め日本全国で350校以上の校歌を作曲しています。 古関裕而さんの曲は、校歌や応援歌が多いんです。 福島の古関裕而記念館では、古関裕而さんの曲が現在も歌い継がれています。 昭和54年には福島の最初の名誉市民に選ばれるなど、現在でも地元でフラッシュモブやるくらい愛されています。 福島駅東口の古関裕而先生。 是非、会いに来てください😉 — 信夫山鉄男 yamahei6 朝ドラ「エール」のモデルとなった経緯は、福島商工会議所青年部などが5年前からドラマ化してもらうために、福島市・豊橋市と署名15万以上を集めてNHKに陳情した結果だそうです。 戦後の日本を音楽で元気づけ、1964東京五輪の入場行進曲を手掛けた古関裕而さん夫婦をモデルにした朝ドラが、2020東京五輪の開催される前に放送されるのはスゴイ。 それに、福島市は東京五輪聖火リレーの出発地で、五輪競技でも最初の開催地だったりと、復興五輪の象徴なのです。 古関裕而が死去。 昭和の作曲家。 日本コロムビアに入社し歌謡曲・応援歌など生涯に5000曲を作曲。 主な作品に『六甲おろし』『栄冠は君に輝く』『長崎の鐘』『君の名は』がある。 気品ある格式高い曲風から現在まで多くの作品が愛されている (80歳・脳梗塞) — 岡村 義視 kamo1868 名前:古関 裕而(こせき ゆうじ) 本名:古関 勇治 生年月日:1909年8月11日 出身地:福島県福島市 年齢:享年80才(1989年8月18日死去) 職業:作曲家 結婚歴:1回。 嫁は金子(きんこ) 古関裕而さんは作曲するとき、なんと楽器を使いません。 書斎には楽器がないので、本・五線譜・鉛筆だけでまるで作家の書斎。 頭で描いた曲を、五線譜に書いていく天才スタイル。 老舗呉服店「喜多三」の後継者として育てられましが、周囲からはぼんやりして取り柄がない子供だと思わてました。 一方で音楽好きの父親・三郎次さんがなかなか手に入らない蓄音機を買ったことで、そこから流れる浪曲・民謡・吹奏楽を聴いて楽しんでると、母親・ヒサさんが小さなピアノを買ってくれました。 当時の福島は絹織物産業で潤う豊かな街で、絹製品の買い付けでたくさん外国人が訪れて、古関裕而さんは西洋の新しい音楽に触れていくことができました。 福島県師範学校附属小学校では、音楽好きな担任の遠藤喜美治先生が音楽指導に熱心なおかげで、古関裕而さんは10才で楽譜が読めるようになると、市販の妹尾楽譜を買って作曲に夢中になり、同級生たちから作曲をリクエストされるほどの人気に。 また、近所に住んでいた5才年上の作詞家・野村俊夫さんとは、のちに戦時中にコンビで作品を作っていくことにになります。 昭和30年前後の旧校舎、商業実践室付近の写真です。 いつもハーモニカを持ち歩いて勉強より作曲に夢中で、学校の弁論大会では書き溜めていた曲が初めて人前で演奏されるなど、独学で作曲の才能を開花させてゆきます。 一方で、昭和恐慌の大不況で呉服店が倒産・・・。 しかし呉服屋を継ぎたくなかった古関裕而さんは内心ほっとしたのでした。 こうして音楽に没頭できる環境をゲット。 高校卒業する頃には日本でも有数のハーモニカバンド「福島ハーモニカーソサエティー」に入団して作曲・編曲・指揮を担当。 この頃、近代フランスうやロシアの音楽と衝撃の出会いを果たしています。 18才の時はラジオ好きだったのペンネーム「楽治雄(らじお)」を名乗り、高校の寄せ書きには『末(すえ)は音楽家だよ』と書いてました。 高校卒業後、川俣銀行(現東邦銀行川俣支店)に就職して働きながら、憧れの作曲家・山田耕筰さんと手紙のやりとりをしたり、仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)の記念番組に出演したり、聖歌の作曲家・金須嘉之進さんに師事しています。 上京すると夫婦には個性豊かな人々との出会いが待っていました。 一方、専属作曲家として契約しましたがそう簡単にヒット曲は生まれず。 3年くらいは売れない不遇の時代がつづきました。 だから印税の前払いだった毎月200円のギャラも100円に値下げ。 嫁は子供を妊娠中なのに生活が苦しくなりました。 契約解除になりそうでしたが、嫁の金子さんが「必ず恩返しします」と日本コロンビアに頭を下げて首の皮一枚繋がりました。 そんななかついに転機到来。 野球で慶応義塾大学に4連覇していた早稲田大学が、慶応の応援歌「若き血」に対抗できる応援歌を作ろうと、当時教授だった西條八十さんがまずは歌詞をえらびました。 しかし良い詩すぎるので大物作曲家に頼みたいが学生は払うギャラがない。 そこで福島出身の歌手で古関裕而さんと交流関係のあった伊藤久男さんが、当時無名だが才能ある作曲家として古関裕而さんに白羽の矢をたててくれたのです。 そして早稲田大学の応援歌「琥珀の空」が完成。 古関裕而さんは慶応を潰すなど考えず沸き上がったメロデイーで作曲しましたが、なんと早稲田は慶応に勝ちました!22才の頃でした。 これがきっかけで作曲依頼が殺到。 1935年(昭和10年)26才のとき「船頭可愛や」が大ヒット!嫁の金子さんが長女・雅子さんを出産した翌年のことでした。 新聞社が賞金1000円(現500万円)で軍歌の歌詞を募集し、25000通を超える応募の中から当選したのは、京都市役所に勤務していた薮内喜一郎さんの歌詞「露営の歌」でした。 当時、嫁・金子の兄を訪ねて満州で戦争を見た行った帰りの汽車で読んだ新聞に「露営の歌」が掲載されていたので、汽車の中で作曲したのは、軍歌なのに悲しいメロディーでしたがこれが採用され、古関メロディーに日本中にとどろくことになったのです。 こうして軍の要請で戦時歌謡を作曲することに。 1940年(昭和15年)には映画「暁に祈る」の主題歌を作曲。 出兵する兵士やその家族が、この歌で別れを惜しみました。 しかし自分が作った歌を歌って戦死していく若者の姿に心を痛めます。 1943年(昭和18年)太平洋戦争で日本は破れ戦況は悪化の一途をだどり、多くの若者が招集されました。 映画「決戦の大空へ」の制作にあたり古関裕而さん(33才)と作詞家の西條八十さん(51才)コンビは茨城県の土浦海軍航空隊に一日入隊して、若い練習生たちの生活を取材し「若鷲の歌」が生まれました。 若者に対する応援歌です。 戦意高揚といより、家族の気持ちに寄り添った曲を数多く作りました。 古関裕而さんと嫁・金子さんは、傷ついた人々の心を音楽の力で勇気づけようと新しい時代の音楽を奏でていきます。 1964年(昭和39年)には東京オリンピックの入場行進曲も手掛けました! 高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」は現在も歌い継がれる名曲! 今度は劇作家の菊田一夫さんとのコンビで、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルでヒット作を連発。 1961年(昭和36年)にコンビで手がけた森光子さん主演舞台『放浪記』は、平成まで続くロングラン公演となっています。 ラジオドラマ『君の名は』はきっと、新海誠監督のヒット映画『君の名は。 』のタイトルに影響を与えてると思います。 1977年68才のとき夏の甲子園の開会式に招待されると、母校が甲子園で初勝利する奇跡が起きて、自分が作った校歌を生で聴いたのでた。 1988年11月12日、脳梗塞で入院中、出身地に「福島市古関裕而記念館」が建ちました。 1989年(平成元年)8月18日、聖マリアンナ医科大学病院で死去・・・死因は脳梗塞でした。 葬儀は盛大な音楽葬となり、早稲田と慶応の両大学の応援団が応援歌を浮くってくれました。 2009年は生誕100年記念。 JR福島駅の発車メロディに古関裕而さん作曲の「高原列車は行く」「栄冠は君に輝く」が採用され、福島駅東口駅前広場にはオルガンを弾く姿をデザインしたモニュメントが建てられました。 高等女学校に進学し、声楽家を夢見た少女でした。 イギリスのコンクールで2位入賞した古関裕而さんの新聞記事を見て、その才能に惚れてファンレターを送り、4か月の文通で恋愛し、豊橋市で会うと、そのまま福島に行って、結果わずか半年でスピード結婚したのでした。 昭和5年、古関裕而さんの年齢20才、嫁の金子さん18才での結婚でした。 秋に古関裕而さんが日本コロンビアに声をかけられ、契約して翌年1936年(昭和6年)に夫婦で上京。 世田谷区代田の自宅で暮らしました。 昭和7年20才の頃1月に長女・雅子さんを出産。 昭和9年22才の頃7月に次女・紀子 みちこ さんを出産。 その後、帝国音楽学校に入学して声楽に励んだ嫁・金子さんでしたが、戦後昭和21年34才の頃に長男・正裕さんを出産してからは子育てに専念するため音楽の道は辞めています。 でも音楽好きだから家では毎日歌っていました。 晩年は1980年7月23日に病気で死去。 享年68才。 死因は乳がんの全身転移でした。 旦那の古関裕而さんより先に亡くなっているんですね・・・。 大学卒業後、日本経済新聞社に就職し、データベース、オンライン情報サービスなどシステム開発の仕事に関わりました。 新聞社を早期退職後、青山で輸入婦人服のセレクト・ショップ「ブティック・ラフィーナ」を経営しながら、2008年に小説「緋色のラプソディー」を出版したりと、多岐にわたって活動。 また、若い頃のバンド活動を活かして2013年に音楽ユニット『喜多三』を結成。 父の楽曲をメインに歌とトークのライブ活動を行っています。 プライベートでは息子・古関正裕さんは現在、結婚して子供もいるようです。 嫁・金子さんと古関裕而さんは現在すでに亡くなっていますが、息子の古関正裕さんは音楽活動もしているので、やっぱり音楽好き一家なんですね。 朝ドラ「エール」では主人公の幼少期から、夫婦が戦争という苦難を乗り越え、日本中を明るく励ます応援歌を作っていく姿が描かるようです。 代表曲が生まれるエピソードには、生涯の出会いやドラマチックな秘話があると思うので楽しみです。

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古関裕而の生涯や家系図をチェック!子供は3人おり妻は先に死ぬ!?|朝ドラマイスター

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いやー、本当に気分が上がる曲ばかりです。 古関裕而さんは、軍歌や応援歌の作曲が多いですが、この旋律は本当に見事だなと感じます。 音楽は、人々の心に影響しますが、この時代は、みんなこれを聞いて力を出したんだなと思います。 六甲おろしとか、栄冠は君に輝くとか、今も現役バリバリの曲ですもんね。 新型コロナウィルスで大変な時期で気分が落ちやすいときに、たくさん聞きたいメロディーです。 古関裕而が作曲したのは、5000曲とも言われ、作曲の際には楽器を一切使わず、頭の中でしたと言われています。 驚きですね。 他人から見ると、すごい情熱にみえるけど、本人にとっては当たり前だったのかもしれません。 古関裕而の経歴は?才能はいつから開花した? 古関裕而の音楽の出会いは幼少時代から 古関裕而の実家は、呉服店でした。 音楽と関係ないのかと思いきや、父が音楽好きで、大正時代に蓄音機を購入されたそうです。 古関裕而は幼少期から音楽の中で育ちました。 ここに、音楽との出会いがあったんですね。 父が事業を営んでいなかったら蓄音機も買えなかったかもしれません。 小学校から作曲開始 小学校では、先生が音楽の指導に熱心で、古関裕而は10歳で楽譜が読めるようになりました。 その後、授業だけでは物足りなくなり、楽譜を買ったり、クラスメイトが作詞をし、古関裕而が作曲をするようになったそうです。 びっくりですね、小学校からバンド活動みたいなものですよね!!きっと、頭も良かったに違いないですね。 その後、家業を継ぐために商業高校に入学しましたが、いつもハーモニカを持っていたそうです。 そして、なんと古関裕而が持っていた曲が合奏用に編曲され、みんなで合奏されることになりました。 学校でも人気だったに違いありませんね。 その後、銀行に就職しながら音楽活動を続けます。 そして、大きな転機は1929年、日本人として初めての国際的コンクールに入選したことでした。 その後、楽団で活躍することになります。 やがて、才能がどんどん社会に広がっていきます。 古関裕而記念館とは.

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古関裕而の子供は何人?出身高校や経歴は?朝ドラの妻役は誰?長男正裕氏の現在は?

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で生まれ旧制福島商業学校(現)に通いながらに通い、に師事 して、1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家である。 それを機会にの推挙で東京の楽壇に進出する。 クラシック畑からポピュラー畑に転身し、、、応援歌「あゝ中央の若き日に」、第一応援歌「」、応援歌「我ぞ覇者」、応援歌「カレッジソング」、応援歌「真澄の空に」、応援歌「希望の門」、 の大会歌「」、の球団歌「」、の球団歌「」、の初代球団歌「」、の「オリンピック・マーチ」、スポーツ中継テーマ「」など、実に数多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ 、和製と呼ばれた。 気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。 古関が作曲した曲は5千曲に及ぶという。 また、作曲の作業には楽器を一切使わずに頭の中だけで行ったといわれる。 幼少期 大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。 父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。 古関は幼少の頃から音楽の中で育ち、ほとんど独学で作曲の道を志していく。 同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに(作詞家)となって古関とともに数々の曲を世に送り出すこととなる。 (大正5年)、古関は7歳のときにへ入学した。 担任の遠藤喜美治が音楽好きで、音楽の指導に力を入れていた。 古関は10歳の頃には楽譜が読めるようになり、授業だけでは物足りなくなり、市販の妹尾楽譜などを買い求めるようになった。 ますます作曲に夢中になり、次第にクラスメイトが詩を持って古関に作曲を依頼してくるようになる。 こうして子供の頃から作曲に親しむこととなった。 商業学校に入ったのは家業を継ぐためであったが、常にハーモニカを携帯し、学業より作曲に夢中だったという。 や著の「作曲法」等を買い集め、独学での作曲法の勉強を続けていた。 ある時、年に2回行われていた校内弁論大会にハーモニカで音楽をつけることになり、古関が書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏することになった。 初めて自分の作品が披露された出来事であった。 また、在学中に家業の呉服店が倒産した。 学校を卒業する頃、福島ハーモニカーソサエティーに入団する。 当時、日本でも有数のハーモニカバンドであった。 古関は作曲・編曲・指揮を担当し、地元の音楽仲間が主宰していた「火の鳥の会」が近代音楽家のレコードコンサートを開いていた。 ここで初めて近代フランス、ロシアの音楽に出会い、衝撃を受ける。 傾倒したのは、の『』との『』、、などである。 このレコードコンサートには頻繁に通っていたという。 卒業後、川俣銀行(現川俣支店)に勤務。 この頃、学生時代から憧れていたの事務所へ楽譜を郵送し、何度か手紙のやり取りを行っている。 古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えていたという。 福島ハーモニカーソサエティーとともに仙台中央放送局(現)の記念番組に出演する。 この頃、リムスキー=コルサコフの弟子で仙台に在住していたに師事することになった。 金須はで、正教のを学ぶため前のの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフからを学んでいた。 コロムビア専属へ (昭和4年)、管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、入賞を果たす。 ほとんど知られていないが、これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であり、当時の新聞でも大々的に報道されている。 『竹取物語』は、色彩的で斬新ながなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。 この入賞の報道を読んだ声楽家志望の愛知県在住の(きんこ)が古関にファンレターを送り、熱烈な文通を経て、古関20歳、金子18歳でスピード結婚。 古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は現在ほとんど行方不明になっている。 『竹取物語』の所在も知れないという。 同年9月、の顧問の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。 東京ではに師事した。 菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関にはよりも才能があったと、後年まで称賛している。 師と仰いだ菅原明朗のほかに、とも親交が厚かった。 しかし、古関は、実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。 コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。 古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、それは叶わなかった。 東京に移ってからのオーケストラ作品に、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』がある。 これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。 また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。 (昭和10年)、古関が26歳の頃、調の「船頭可愛や」(詩:、唄:)が大ヒットし、人気作曲家の仲間入りを果たす。 この歌は世界の舞台でも活躍した・もレコードに吹き込んだ。 この頃、声楽家志望だった妻の金子はへすすんでいた。 また同時期に同郷のと交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。 戦中から戦後 ________ ____________ 1955年 戦時中はで数々の名作を残している。 古関メロディーのベースであったクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のもの(「」、「」など)が多かった。 それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。 戦時歌謡を作るかたわら、ヴァイオリン協奏曲のスケッチを重ねていたが、完成に至らぬうちに譜面が散逸したという。 古関自身、前線の悲惨な体験や目撃が「暁に祈る」や「」に結びついたと証言している。 また自らの作品で戦地に送られ、戦死した人への自責の念を持ち続けていた。 戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「」。 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『』の主題歌「」。 戦後日本の発展の象徴でもある開催のの開会式に鳴り響いた「」。 現在も毎年に流れている高校野球大会歌「」。 その他にも「」、「」、「高原列車は行く」などの格調高い曲を数多く創作した。 また、クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心をとらえた。 の美しい音色と格調のあるので歌唱する、叙情溢れるリリックなで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた。 のと名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、のヒット作品を世に送り出した。 に菊田と手がけた主演の『』は長期公演舞台となった。 また、戦後の古関は、の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。 また、NHKテレビラジオを通じて各音楽番組に出演。 ラジオドラマ『』では放送中に、スタジオにオルガンを持ち込み、生演奏をして劇中伴奏を務め、他の番組でも時折生演奏で数多く出演した。 一方で、同じように流行歌の作曲家としても活躍したとともに、「近世の日本のマーチ作曲者の代表的存在」として研究対象とされることが近年増えてきている。 ____________ 作詞:西城八十 作曲:服部良一 ___________ ____________ 晩年と死後 系の音楽番組『』の審査員を10月の開始から初代司会者のとともに降板したまで務めていた。 、「」制定30周年を記念しての開会式に招待された。 大会旗掲揚に当たり、大会歌の大合唱が起こりその光景に感激したという。 また、この大会では古関の母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来た。 福島市最初の名誉市民で、同地には11月12日に「」も建てられている。 しかし古関はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。 の誕生日を迎えて1週間足らずの(平成元年)午後9時30分、古関はのためで没した(享年80歳)。 その後盛大な音楽葬が催され、生前、、のを作曲していた古関のために参列した両大学の応援団がそれぞれの応援歌を歌い、古関の棺は左右からさしかけられた両校の校旗をくぐって多くの参列者に見送られた。 古関の没後、の授与が遺族に打診されるも古関の遺族はこれを辞退した。 その理由について、古関の長男は「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と没後追贈に疑問を持ったためとしている。 4月11日に生誕100年を記念し、JR福島駅の発車メロディーに古関の作品が採用されることになった。 在来線ホームに「高原列車は行く」、新幹線ホームに「栄冠は君に輝く」が採用され、発車メロディー用に30秒間にアレンジされた曲が流れている。 同年8月11日、同じく生誕100年を記念しモニュメントが古関の地元・福島市の東口駅前広場に設置された。 制作・施工費は約1500万円。 30歳代後半の古関が愛用したオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、午前8時から午後8時までの1時間おきに、「栄冠は君に輝く」「長崎の鐘」などの古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。 夏以降、出生地などで「」入りを応援する動きが活発になっている。 春から、NHKとして、古関をモデルとした「古山裕一」を主人公とする『』が、の主演で放送されている。 ___________ 覇者 覇者 早稲田 _________ __________• 1931年「福島行進曲」(作詞:野村俊夫、歌:天野喜久代)• 1934年「」(作詞:桑原節次、歌:、)• 1935年「船頭可愛や」(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)• 1935年「応援歌 カレッジソング」(作詞:吉田精一)• 1936年「」(作詞:、歌:)• 1936年「」(作詞:、歌:中野忠晴)• 1936年「を」(作詞:高橋掬太郎、歌:コロムビア合唱団)• 1937年「彈雨を衝いて」(作詞:高橋掬太郎、歌:伊藤久男)• 1937年「」(作詞:薮内喜一郎、歌:中野忠晴、、伊藤久男、、佐々木章)• 1938年「」(作詞:、歌:)• 1938年「婦人愛國の歌」(作詞:仁科春子、歌:霧島昇、)• 1938年「憧れの荒鷲」(作詞:西條八十、歌:ミス・コロムビア、二葉あき子)• 1939年「」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男)• 1939年「荒鷲慕いて」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1940年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1940年「嗚呼」(作詞:、歌:、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:海老名正男、歌:伊藤久男、、二葉あき子)• 1941年「」(作詞:高橋掬太郎、歌:藤山一郎)• 1941年「みんな揃って翼賛だ」(作詞:西條八十、歌:不明)• 1942年「」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1942年「防空監視の歌」(作詞:、歌:藤山一郎、二葉あき子)• 1942年「大東亞戰争陸軍の歌」(作詞:佐藤惣之助、歌:伊藤久男、、)• 1942年「シンガポール晴れの入城」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1942年「」(作詞:野村俊夫、歌:コロムビア合唱団)• 1942年「空の軍神」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「みなみのつわもの」(報道部選定、歌:伊藤久男)• 1943年「大南方軍の歌」(南方軍制定歌、歌:霧島昇)• 1943年「海を征く歌」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1943年「戰ふ東條首相」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1943年「あの旗を撃て」(作詞:大木惇夫、歌:伊藤久男)• 1943年「かちどき音頭」(作詞:野村俊夫、歌:佐々木章、松原操、)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:藤山一郎)• 1943年「」(作詞:西條八十、歌:霧島昇、)• 1943年「撃ちてし止まん」(作詞:小田俊與、歌:霧島昇)• 1944年「ラバウル海軍航空隊」(作詞:佐伯孝夫、歌:)• 1944年「制空戰士」(作詞:大木惇夫、歌:波平暁男、酒井弘、奈良光枝)• 1944年「雷撃隊出動の歌」(作詞:、歌:霧島昇、波平暁男)• 1944年「の凱歌」(作詞:サトウハチロー、歌:近江俊郎、朝倉春子)• 1944年「の決戦」(作詞:、歌:伊藤武雄)• 1944年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤武雄、安西愛子、伊藤久男)• 1944年「比島決戦の歌」(作詞:西條八十、歌:酒井弘、朝倉春子)• 1944年「」(作詞:サトウハチロー、歌:日蓄合唱団、演奏:大東亜交響楽団、松竹軽音楽団)• 1945年「特別攻撃隊(斬込隊)」(作詞:、歌:) 戦後• 1946年「々歌」(作詞:土井晩翠)• 1947年「夢淡き東京」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1947年「白鳥の歌」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1947年「雨のオランダ坂」(作詞:、歌:渡辺はま子)• 1947年「三日月娘」(作詞:薮田義雄、歌:藤山一郎)• 1947年「」(作詞:菊田一夫、歌:、)• 1947年「夜更けの街」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:、歌:伊藤久男)• 1948年「」(作詞:菊田一夫、歌:二葉あき子)• 1948年「」(作詞:西條八十)• 1948年「若き日のエレジー」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1949年「」(作詞:サトウハチロー、歌:藤山一郎)• 1949年「」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、コロムビア合唱団)• 1950年「別れのワルツ」(「」(日本ではとして知られる)の編曲)• なお、レコードに表示されている「ユージン・コスマン(編曲)」「ユージン・コスマン管弦楽団(演奏)」は本名(古関裕而)をもじって命名された。 _____________ ____________• 1950年「」(作詞:小島情、歌:伊藤久男)• 1950年「薔薇と蜜蜂」(作詞:野村俊夫、歌:二葉あき子)• 1950年「」(作詞:若葉清成、補作:西條八十、歌:藤山一郎、安西愛子)• 1951年「恋を呼ぶ歌」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1951年「さくらんぼ大将」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1951年「あこがれの郵便馬車」(作詞:、歌:)• 1951年「の鐘」(作詞:、歌:藤山一郎)• 1951年「」(作詞:米山治、歌:藤山一郎、)• 1952年「黒百合の歌」(作詞:菊田一夫、歌:織井茂子)• 1952年 校歌(作詞:吉田精一)• 1952年「夜船の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:久保幸江)• 1953年「」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1953年「君いとしき人よ」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1953年「」(作詞:西條八十、歌:伊藤久男)• 1953年「みどりの馬車」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1953年「岬の灯り」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1954年「高原列車は行く」(作詞:丘灯至夫、歌:岡本敦郎)• 1954年「サロマ湖の歌」(作詞:中山正男、歌:伊藤久男)• 1954年「」(作詞:、補作:西條八十、歌:岡本敦郎、奈良光枝、コロムビア合唱団)• 1954年「数寄屋橋エレジー」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「チャンドラムの夜」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1954年「花のいのちを」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男、奈良光枝)• 1954年「百万石音頭」(作詞:、歌:伊藤久男、永田とよこ)• 1954年「福島音頭」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男、)• 1954年「忘れ得ぬ人」(作詞:菊田一夫、歌:伊藤久男)• 1955年「花売馬車」(作詞:西條八十、歌:)• 1956年「メコンの舟歌」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1957年「荷物片手に」(作詞:、歌:)• 1957年「」(作詞:野村俊夫、歌:伊藤久男)• 1958年「」(第1回時の紛失楽譜発見、採譜オーケストラ編曲、至る現用)• 1958年 茨城県大子町立袋田小学校校歌(作詞:野村俊夫)• 1959年 校歌 「希望羽ばたく」(作詞:門田ゆたか)• 1960年 隊歌「この国は」(作詞:大関民雄、補作:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊隊歌「君のその手で」(作詞:西沢爽)• 1960年 陸上自衛隊行進歌「聞け堂々の足音を」(作詞:梅津統秋、補作:サトウハチロー)• 1960年「スカイラインの歌」(作詞:野村俊夫、歌:)• 1961年「」(作詞:、、、歌:)• 1961年「夕月」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「あの橋の畔で」(作詞:菊田一夫、歌:)• 1963年「」(作詞:椿三平、歌:、、)• 1964年「」(演奏:陸上自衛隊中央音楽隊)• 1964年「故郷はいつも瞼に」(作詞:野村俊夫、歌:不明)• 1966年「スカーレット・オハラ」(作詞:菊田一夫、歌:那智わたる)• 1968年「早慶讃歌 〜花の早慶戦〜」(作詞:藤浦洸)• 1968年 隊歌「」(作詞:山田哲、補作:、歌:藤山一郎)• 1968年「若鷲の歌」(作詞:西條八十、歌:)• 1970年「」(作詞:藤浦洸)• 1970年「」テーマソング「決断」(作詞:丘灯至夫、歌:幹和之)• 1970年 陸上自衛隊隊歌「栄光の旗の下に」(作詞:赤堀達郎、補作:藤田正人)• 1971年「純白の大地(の歌)」(歌:日本合唱協会)• 1977年「」挿入歌「ああ甲子園」(作詞:、編曲:、歌:日唱)• 隊歌「海をゆく」(作詞:旧版 — 佐久間正門 現行版 — 松瀬節夫) 映画音楽 主題歌のみのものは除く。 1939年「」(監督)• 1944年「」(演出)• 1948年 — 1949年「」3部作(佐々木啓祐監督)• 1950年「」(監督)• 1952年「」(監督)• 1953年「」(監督)• 1953年「」(監督・応援監督・特撮監督)• 1953年 — 1954年「」3部作(大庭秀雄監督)• 1955年「」(監督)• 1957年「」(田中重雄監督)• 1957年「」(監督)• 1958年「」(田中重雄監督)• 1959年「」(本多猪四郎監督)• 1961年「」(監督)• 1961年「」(本多猪四郎監督・円谷英二特技監督) クラシック音楽• 交響曲(第1番から第3番の3曲)• ヴァイオリン・チェロのための協奏曲• 五台のピアノのための協奏曲• 一茶の句による小品童曲• 和歌を主題とせる交響楽短詩• 舞踊組曲「竹取物語」• 舞踊詩「線香花火」• 交響詩「大地の反逆」• 管弦楽組曲「戦場の印象」• 室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」 その他• 1949年 NHKスポーツ中継テーマ曲「」(演奏:コロムビア・ブラスバンド)• 1950年 NHK「」テーマ曲(作詞:藤浦洸)• 1956年 NHKテレビ「歌の広場」テーマ曲(作詞:丘灯至夫)• 1964年 東京私立「・」第2校歌(作詞:西條八十)• 1970年 NHK「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「」テーマ曲(演奏:コロムビア・オーケストラ)• 1970年 NHKラジオ「早起き鳥」テーマ曲(作詞:佐藤竜太、歌:三鷹淳、真理ヨシコ)• NHK「放送開始・終了」テーマ曲• 応援歌「ああ中央の若き日に」(中央大学学友会選定歌詞)• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:)• 社歌(作詞:布谷真須枝)• 社歌「明日をつくる」(作詞:)• 初代社歌「パイオニアわれら」• 学園歌「意気と熱(まこと)に」(作詞:)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:下山つとむ)• 校歌(作詞:中河与一)• 校歌(作詞:サトウハチロー)• 大多喜町立大多喜小学校校歌(作詞:西條八十)• 歌(作詞:)• 校歌(作詞:)• 京都市立加茂川中学校校歌(作詞:)• 校歌(作詞:高女十二回生)• 校歌(作詞:)• 校歌(作詞:丘灯至夫)• 校歌(作詞:船橋久男)• 校歌(作詞:西條八十)• 北九州市立熊西小学校(作詞:火野葦平)• 東京都世田谷区立経堂小学校校歌(作詞:西條八十)• 町田市立町田第一小学校校歌(作詞:西條八十)• 愛知県西尾市立吉良中学校校歌• 豊橋市歌(作詞:) 著書• ただし、古関自身はスポーツにあまり興味がなく、プロ野球でも特定のチームを応援することはなかったという。 そのため、阪神と巨人からそれぞれ応援歌の作曲を依頼された際には、両方とも断らず中立の立場で依頼を引き受けている。 同名の歌が2曲存在する(現行の2代目の歌は作詞:酒井祐春、作曲:)。 古関本人が書き表した楽譜には「船頭可愛いや」と表記されている。 「」の元歌。 この作品以降、伊藤久男との結びつきが強くなる。 による同名異曲がある。 同名の歌が3曲存在する(2代目の通称「ジャイアンツ・ソング」はの作曲)。 による同名異曲がある。 初めてレコード化されたのはのことである。 「」と同じ曲。 で試聴可能である。 作詞の佐伯、歌の灰田がビクター専属だったので、例外的にビクターから発売された。 伊藤武雄、安西は当初予定された歌手。 レコード番号も用意され3月発売予定と報じられていたが、伊藤久男を迎えて初めてレコード化されたのは戦後のことである。 「戦後にレコードがすべて破棄された」など、曰く因縁のついている戦時歌謡であるが、この曲に予定されていたレコード番号と、その前後の番号がすべて欠番になっていることから、「初めから作られなかったのではないか」という説もある。 楽譜は古関裕而記念館で展示。 また、レーベル原稿等も現存している。 に、の編曲によって、初めて発売された。 に発売された藍川のアルバム「レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」《古関裕而歌曲集2》 」に収録されているものが唯一の音源と思われる。 「」および「」とは別の曲。 ところによっては「メコンの舟唄」という表記もみられる。 による同名異曲がある。 「オリンピック行進曲」と呼ばれることもある。 「古関裕而(作曲家)」 2019年7月20日放送。 「若鷹の歌」、「君の名は」、「長崎の鐘」 古関裕而さん死去。 1989年8月19日夕刊15面• NHK生活情報ブログ. NHK 2017年12月28日. 2019年2月28日閲覧。 [ ]• NIKKEI NET 日本経済新聞社. 2009年8月11日. の2009年8月15日時点におけるアーカイブ。 2019年2月28日閲覧。 東京本社版 2018年• デイリースポーツ online 株式会社デイリースポーツ. 2019年2月28日 2019年2月28日閲覧。 2014年10月11日. Extra便. TAP the POP. 2019年2月28日閲覧。 『Fujiya Book』不二家、1990年、61頁。 『AV CREATOR PIONEER 音と光の未来をひらくパイオニア50年史』パイオニア、1988年。 参考文献• の著述多数• の解説、著述多数• 『評伝古関裕而 国民音楽樹立への途』彩流社 2012年 評伝• 長男のは者。 長女の(西條嫩子)も詩人。 孫のはエレキギター製作者。 牛込払方町(現在の)出身。 実家は大久保周辺に土地を持つ大地主で、父は設計技師であったが、父親の死後、家庭は没落した。 (明治31年)、桜井尋常小学校に入学。 松井喜一校長に影響を受ける。 旧制早稲田中学校(現)在学中にと出会い生涯の師と仰ぐ。 吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。 中学時代に英国人女性から英語を学んだ。 正則英語学校(現在の)にも通い、英文科。 早稲田大学在学中にらと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。 の『未来』にも同人として参加し、(8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。 後にへ留学しソルボンヌ大学でらと交遊、帰国後早稲田大学文学部文学科。 は日本音楽著作権協会会長を務めた。 、会員。 1943年には早稲田大学時代の同級生・外池格次郎が当時町長を務めていた(後にを経て現・)に疎開。 以後戦後まで下館を拠点としていた。 詩の詩人としてだけではなく、のとしても活躍し、が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき「東京行進曲」、戦後の民主化の息吹を伝えの躍動感溢れる歌声でヒットした「」、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー「」、の故郷風景ともいえる「」「ゲイシャ・ワルツ」、の男の演歌にしてメロディーの傑作「」など無数のヒットを放った。 また、児童文芸誌『』などに多くの童謡を発表し、と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。 薄幸の童謡詩人・を最初に見出した人でもある。 (45年)に急性心不全のための自宅で死去。 78歳没。 は詩泉院釈西條八十。 墓所はに在るである。 エピソード• 名前はではなく、本名である。 両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名したという。 天麩羅屋経営で糊口をしのいでいた時期がある。 の小説『』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。 に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となった。 なおテレビドラマは、5度製作放映された(2017年8月現在)。 1967年に作詞した「夕笛」はによって歌われ、最後のヒット曲となったが、の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになった。 八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息している。 担当編集者の回想に、『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれている。 著者は友人の詩人の次女である。 内容は「トミノ」という少年がを旅するという内容で、これは西條が亡くなった父もしくは妹に奉げる為に書いたとされるが詳しいことは不明。 主な著作 (右)とともに(1931年、熱海)• 『西條八十全集』全17巻、、1991年-2007年。 『西條八十著作目録・年譜』事業出版、1972年。 同刊行委員会、編 研究書・著作• 『研究』、1967年。 『西條八十自伝 唄の自叙伝』で再刊〈人間の記録29〉、1997年。 『女妖記』で再刊、2008年。 自伝的小説集 詩集(象徴詩・純粋詩)• 『砂金』自費出版、1919年。 (復刻:、2004年)• 『見知らぬ愛人』、1922年。 『美しき喪失』、1929年。 『一握の玻璃』、1947年。 詩集(その他)• 『空の羊』• 『少女純情詩集』国書刊行会で復刻、1984年。 『水色の夢』• 『西條八十詩集』角川春樹事務所、で再刊、2004年。。 訳詩集• 『白孔雀』、1920年。 (岩波文庫で再刊、2013年10月)• 水谷まさる共訳『世界童謡集』、1924年。 (百科文庫で再刊、1991年) 童謡• 『』(『赤い鳥』1918年11月号)• 『西條八十 名作童謡西条八十…100選』、上田信道編(、2005年) 歌謡曲(流行歌)• 「」(作曲:、歌唱:、1928年)• 「」(作曲:、1929年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:、1929年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年)• 「の唄(明烏編)」(作曲:中山晋平、歌唱:、1930年)• 「」(作曲:、歌唱:、1930年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1930年)• 「の唄」(作曲:、歌唱:、1931年)• 「」(作曲:、歌唱:、1931年)• 「節」(作曲:松平信博、歌唱:徳山璉、1931年)• 「」(作曲:、歌唱:、1931年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:四家文子、1932年)• 「」(作曲:松平信博、歌唱:徳山璉・四家文子、1932年)• 「」(作曲:、歌唱:、1932年)• 「」(作曲:中山晋平、歌唱:・、1933年)• 「佐渡を想えば」(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1933年)• 「サーカスの唄」(作曲:、歌唱:、1933年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:、1933年)• 「」(作曲:、歌唱:ミス・コロムビア()、1933年)• 「」(作曲:、歌唱:、1934年)• 「勝太郎子守唄」(作曲:佐々木俊一、歌唱:小唄勝太郎、1936年)• 「花言葉の唄」(作曲:、歌唱:松平晃・、1936年)• 「」(『』の元歌、作曲:、歌唱:、1936年)• 「戦友の唄」(『』の元歌、作曲:、歌唱:、1938年)• 「」(作曲:、歌唱:・ミス・コロムビア、1938年)• 「」(作曲:、歌唱:ミス・コロムビア、1938年)• 「」(作曲:竹岡信幸、歌唱:、1938年)• 「」(作曲:、歌唱:ミス・コロムビア、二葉あき子、1938年)• 「」(作曲:、歌唱:淡谷のり子、1939年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:霧島昇・、1939年)• 「」(作曲:古関裕而、歌唱:不明、1939年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1940年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:・二葉あき子、1940年)• 「」(作曲:奥山貞吉、歌唱:・二葉あき子、1940年)• 「(建設の歌)」(作曲:古賀政男、歌唱:伊藤久男、1940年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:霧島昇・渡辺はま子、1940年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:ミス・コロムビア・・渡辺はま子、1940年)• 「」(作曲:、歌唱:、1941年)• 「」(作曲:、歌唱:李香蘭、1941年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操・李香蘭、1941年)• 「」(作曲:古関裕而、1941年)• 「」(作曲:古賀政男、1941年)• 「」(作曲:古賀政男、1942年)• 「」(作曲:山田耕作、1942年)• 「」(作曲:古賀政男、1942年)• 「」(作曲:古関裕而、歌唱:藤山一郎、1942年)• 「」(作曲:仁木他喜雄、歌唱:霧島昇・二葉あき子、1942年)• 「」(作曲:、歌唱:渡辺はま子、1942年)• 「」(作曲:佐々木俊一、1943年)• 「」(作曲:古関裕而、歌唱:霧島昇・、1943年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:渡辺はま子、1943年)• 「」(作曲:、歌唱:菊池章子、1943年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1946年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:・、1946年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇、1947年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:霧島昇・松原操、1948年)• 「恋の曼珠沙華」(作曲:古賀政男、歌唱:二葉あき子、1948年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:・加藤雅夫、1949年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎・奈良光枝、1949年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1949年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1950年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:奈良光枝、1950年)• 「越後獅子の唄」(作曲:万城目正、歌唱:、1950年)• 「角兵衛獅子の唄」(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1951年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:、1952年)• 「」(作曲:上原げんと、歌唱:、1952年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:神楽坂はん子、1952年)• 「」(作曲:服部良一、歌唱:藤山一郎、1952年)• 「」(作曲:上原げんと、歌唱:、1952年)• 「ひめゆりの塔」(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男、1953年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1954年)• 「」(作曲:上原げんと、歌唱:高田浩吉、1955年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:、1955年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:、1955年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:島倉千代子、1955年)• 「」(作曲:古賀政男、歌唱:美空ひばり、1955年)• 「あゝ藤原湖」(作曲:古関裕而、歌唱:伊藤久男・奈良光枝、1955年)• 「」(作曲:上原げんと、歌唱:、1956年)• 「」(作曲:万城目正、歌唱:コロムビア・ローズ、1956年)• 「」(作曲:、歌唱:、1961年)• 「」(作曲:、歌唱:、1966年)• 「」(作曲:船村徹、歌唱:舟木一夫、1967年)• 「」(作曲:、歌唱:美空ひばり、1967年)• 「乙女はいつか星になる」• 西條八十の遺作にが作曲したもので、1972年、ツームストーンズ(メンバー:川崎弘、尾崎高志、佐々木久美子、司寛)の歌で、自主制作による限定盤シングル(オーミック N-501)として発売。 発売のがデビューシングルとして上記の曲をカバー。 その後に「西条八十生誕100周年記念曲」として(元乙女隊の松原あかねが改名)がカバーしている(作曲者としてクレジットされているは西田陽一の別名)。 「人間の証明のテーマ」(作曲:、歌唱:、1977年)• 映画「」のテーマ曲。 西條八十の原詩をジョー山中が英訳して歌った。 「天國に結ぶ戀」「ルンペン節」 この2作は「柳水巴」作詞とされているが、これは西條八十の変名である。 小説 (大正13年)3月「」読みきり『はかなき誓』から、(昭和35年)11月「」連載『笛をふく影』まで、少女雑誌に多くの少女小説を連載し、多く刊行され大人気を博した。 『人食いバラ』 (復刻)、2003年、解説• 『西條八十集 人食いバラ 他三篇』 〈少年少女奇想ミステリ王国1〉戎光祥出版、2018年。 編 校歌・社歌 「西條八十全集 第10巻」(歌謡・民謡3/社歌・校歌)収録作品• 『第二校歌』(西條自身の母校の校歌である)• 『登別市立登別温泉小学校(北海道)校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『』校歌• 『(千葉県)園歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『高岡市国吉小学校校歌』• 『北海道立校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『世田谷区立経堂小学校校歌』• 『私立桜丘中学・高等学校校歌』• 『近江実習工業学校校歌』• 『平和生命保険株式会社 社歌』• 『校歌』• 『校歌』 未収録作品には、• 『校歌』(「作詞」とされているが、西條が大幅に加筆改作を行っている)• 『町田第一小学校校歌』• 『々歌』• 『いわき市立久之浜第一小学校校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『大多喜町立大多喜小学校校歌』• 『社歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『校歌』• 『常総市立水海道中学校校歌』 軍歌・戦時歌謡• 『憧れの荒鷲』• 『荒鷲慕いて』• 『総進軍の鐘は鳴る』• 『打倒米英』• 『壮烈特別攻撃隊』• 『空の軍神』• 『陥としたぞシンガポール』• 『若鷲の歌』• 『同期の桜』• 『戦友の唄(二輪の桜)』• 『さくら進軍』• 『大航空の歌』• 『そうだその意気』• 『祖国の護り』• 『』 伝記• 上村直己 『西條八十とその周辺 論考と資料』(近代文芸社 2003年)• 『流行歌 西條八十物語』(、2004年)• 第18回記念・大衆文学賞(評論・伝記部門)を受賞。 新版・(2011年)• 『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝 西條八十 』(、2004年)• 斎藤憐 『カナリア 西條八十物語』(而立書房、2000年)• 『西條八十』(、2005年)。 新版・中公文庫、2008年• 筒井清忠ほか『西條八十と昭和の時代』(選書、2005年)• 『父西條八十』(、1978年)• 新版改題 『〈かなりや〉をつくった西條八十 父西條八十』(ゆまに書房、1998年)• 西條嫩子 『父西條八十は私の白鳥だった』 (文庫 1990年)• 『父・西條八十の横顔』(西條八峯編、風媒社、2011年) 検索: 最近の投稿• 最近のコメント• に 宮崎計実 より• に yamamoto より• に yamamoto より• に 上部一馬 より• に 渋谷進 より アーカイブ• カテゴリー• メタ情報•

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