りゅう しょう げん せき。 しょうりゅう (潜水艦)

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りゅう しょう げん せき

しょうりゅう 基本情報 建造所 運用者 艦種 級名 建造費 約520億円 母港 所属 第1潜水隊 艦歴 発注 平成26年度 起工 進水 就役 現況 現役 要目 2,950 4,200トン 長さ 84m 幅 9. 1m 高さ 10. 3m 8. の10番艦。 艦名は、物事を高所から判断して素早く行動するという意味を込めた「翔龍」から名付けられた。 建造費は約520億円。 そうりゅう型10番艦の「しょうりゅう」までは水中の航続時間を延ばすためのを搭載している。 スターリング機関による発電方式は長時間の潜航能力に優れている。 艦歴 [ ] 「しょうりゅう」は、に基づく平成26年度計画2900トン型潜水艦8125号艦として、で2015年1月28日に起工され、2017年11月6日に命名・進水式が挙行された。 2018年8月26日に公試開始、2019年3月18日に竣工、引渡式・自衛艦旗授与式が挙行されて就役し 、の第1潜水隊に編入された。 で戦後に建造された潜水艦としては28隻目に当たる。 歴代艦長 [ ] 歴代艦長(特記ない限り) 代 氏名 在任期間 出身校・期 前職 後職 備考 艤装員長 - 阿部純一 2017. 16 - 2019. 17 39期 艦長 しょうりゅう艦長 艦長 1 阿部純一 2019. 18 - 防大39期 しょうりゅう艤装員長 脚注 [ ]• 2020年3月5日閲覧。 2019年3月18日. 2019年3月18日閲覧。 2017年11月6日. 2017年11月6日閲覧。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - ()•

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りゅう しょう げん せき

4代にわたって 三公 ( さんこう )を輩出した名門・ 汝南 ( じょなん ) 袁氏 ( えんし )の出身で、 袁紹 ( えんしょう )の 従弟 ( いとこ )。 董卓 ( とうたく )が権力を握ると、 南陽郡 ( なんようぐん )で挙兵して反 董卓 ( とうたく )連合に参加するが、やがて 袁紹 ( えんしょう )と対立する。 その後 揚州 ( ようしゅう )に勢力を拡大した 袁術 ( えんじゅつ )は、天子を 僭称 ( せんしょう )して国号を「 仲 ( ちゅう )」と 定 ( さだ )めるも、諸侯の反発を受け、 孫策 ( そんさく )が離反。 曹操 ( そうそう )に敗北した 袁術 ( えんじゅつ )は 袁紹 ( えんしょう )の元に身を寄せようとするが、その途中に発病して亡くなった。 董卓 ( とうたく )配下の 都尉 ( とい )。 董卓 ( とうたく )が朝廷で権力を握ると反 董卓 ( とうたく )連合が決起。 胡軫 ( こしん )に従って 陽人聚 ( ようじんしゅう )に侵出した 孫堅 ( そんけん )を迎撃に出るが、 胡軫 ( こしん )を嫌った 呂布 ( りょふ )が偽情報を流したため 胡軫 こしん軍は敗北。 混乱の中で 華雄 ( かゆう )は斬られ、 獄門 ( ごくもん )(さらし首)にかけられた。 『三国志演義』では、 鮑忠 ( ほうちゅう )、 祖茂 ( そも )、 兪渉 ( ゆしょう )、 潘鳳 ( はんほう )を次々に討ち取る活躍を見せるが、その後 関羽 ( かんう )に瞬殺され、 関羽 ( かんう )の強さを強調する役目を 担 ( にな )う。 解県 ( かいけん )で暴利を貪る塩商人を殺して 幽州 ( ゆうしゅう )に逃げてきたところで 劉備 ( りゅうび )・ 張飛 ( ちょうひ )と出会い、 劉備 ( りゅうび )に仕えて挙兵した。 曹操 ( そうそう )に捕らえられた際は、厚遇されても 劉備 ( りゅうび )への忠誠を忘れず、 曹操 ( そうそう )の敵であった 袁紹 ( えんしょう )配下の猛将、 顔良 ( がんりょう )を討って恩を返してから 曹操 ( そうそう )のもとを去った。 劉備 ( りゅうび )が蜀の地を得ると 荊州 ( けいしゅう )を任されるが、傲慢で敵をあなどる性格が災いし、魏を攻めている最中、呉に背後を突かれて敗死した。 朝廷の実権を握った 董卓 ( とうたく )により 冀州牧 ( きしゅうぼく )に任命されるが、その後反 董卓 ( とうたく )連合に参加する。 董卓 ( とうたく )が即位させた 献帝 ( けんてい )を認めず、 袁紹 ( えんしょう )と共に 幽州牧 ( ゆうしゅうぼく )・ 劉虞 ( りゅうぐ )を天子に 擁立 ( ようりつ )しようとしたが、 劉虞 ( りゅうぐ )本人の反対により失敗した。 公孫瓚 ( こうそんさん )が 冀州 ( きしゅう )にに侵攻すると、保身のために 袁紹 ( えんしょう )に 冀州 ( きしゅう )を 譲 ( ゆず )るが、すべての権力を 剥奪 ( はくだつ )されてしまう。 その後、 陳留太守 ( ちんりゅうたいしゅ )・ 張邈 ( ちょうばく )の元に身を寄せるが、 袁紹 ( えんしょう )に命を狙われていると思い込み、自害してしまった。 諱 ( いみな )は 劉協 ( りゅうきょう )。 霊帝 ( れいてい )の次子で 少帝 ( しょうてい )の 異母弟 ( いぼてい )にあたる。 母の 王美人 ( おうびじん )は、 劉協 ( りゅうきょう )を生むと 何皇后 ( かこうごう )の嫉妬により毒殺された。 霊帝 ( れいてい )の死後、朝廷で権力を握った 董卓 ( とうたく )に 擁立 ( ようりつ )されて天子に即位する。 その後、 董卓 ( とうたく )は 長安 ( ちょうあん )への 遷都 ( せんと )を強行し、 長安 ( ちょうあん )を脱出した 献帝 ( けんてい )は、 曹操 ( そうそう )に保護されて都を 豫州 ( よしゅう )・ 潁川郡 ( えいせんぐん )・ 許県 ( きょけん )に移した。 220年、 曹操 ( そうそう )の跡を継いだ 曹丕 ( そうひ )に帝位を 禅譲 ( ぜんじょう )し、400年に渡る漢王朝はその幕を閉じた。 皇甫規 ( こうほき )・ 威明 ( いめい ) 涼州 ( りょうしゅう )・ 安定郡 ( あんていぐん )・ 朝那県 ( ちょうなけん )の人。 祖父は 度遼将軍 ( とりょうしょうぐん )、父は 扶風都尉 ( ふふうとい )を務めた名門の出身で、自身も異民族との戦いで数々の功績をあげた。 宦官 ( かんがん )と対立し、 党錮 ( とうこ )の禁の際には 自 ( みずか )ら 党人 ( とうじん )であると名乗り出たが、 罷免 ( ひめん )されることはなくそのまま 用 ( もち )いられる。 皇甫規 ( こうほき )が亡くなると、若く美しい 皇甫規 ( こうほき )の妻を 妾 ( めかけ )にしようと 董卓 ( とうたく )が 迫 ( せま )ったが、 毅然 ( きぜん )として断ったため殴り殺された。 胡広 ( ここう )・ 伯始 ( はくし ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南郡 ( なんぐん )・ 華容国 ( かようこく )の人。 外戚 ( がいせき )・ 梁冀 ( りょうき )の専横を止めず、 中常侍 ( ちゅうじょうじ )の 丁粛 ( ていしゅく )と婚姻関係を結ぶなど、 外戚 ( がいせき )や 宦官 ( かんがん )と共存する 老獪 ( ろうかい )な生き方を貫き、 安帝 ( あんてい )、 順帝 ( じゅんてい )、 沖帝 ( ちゅうてい )、 質帝 ( しつてい )、 桓帝 ( かんてい )、 霊帝 ( れいてい )の6代に仕えて重職を担った。 また、 漢 ( かん )の制度をまとめた 『 漢制度 ( かんせいど )』を遺し、 蔡邕 ( さいよう )に大きな影響を与えた。 さ 父の 周異 ( しゅうい )は 洛陽令 ( らくようれい )、父の 従兄弟 ( いとこ )・ 周景 ( しゅうけい )とその子・ 周忠 ( しゅうちゅう )は共に 太尉 ( たいい )を 務 ( つと )めた名門の出身。 孫堅 ( そんけん )が反 董卓 ( とうたく )連合に参加した際、 舒県 ( じょけん )に移住してきた 孫策 ( そんさく )と親交を結んだ。 孫策 ( そんさく )・ 孫権 ( そんけん )の2代に仕え、 曹操 ( そうそう )の南下に際しては 魯粛 ( ろしゅく )と共に徹底交戦を主張して「赤壁の戦い」を勝利に導く。 孫権 ( そんけん )に 益州 ( えきしゅう )を得て 曹操 ( そうそう )と対抗することを進言し、出陣の準備に向かう途上、 病 ( やまい )により36歳の若さで 亡 ( な )くなった。 朱穆 ( しゅぼく )・ 公叔 ( こうしゅく ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 宛県 ( えんけん )の人。 朱暉 ( しゅき )の孫。 大将軍 ( だいしょうぐん )・ 梁冀 ( りょうき )の 故吏 ( こり )で、たびたび 梁冀 ( りょうき )の横暴を 諫 ( いさ )めた。 冀州刺史 ( きしゅうしし )に就任すると 宦官 ( かんがん )の不正を厳しく取り締まったが、その 苛烈 ( かれつ )さが 桓帝 ( かんてい )の怒りに触れて 罷免 ( ひめん )される。 その後 尚書令 ( しょうしょれい )に任命されたが、 宦官 ( かんがん )に対する厳しさは変わらなかった。 死後、 蔡邕 ( さいよう )によって「 文忠 ( ぶんちゅう )先生」と 諡 ( おくりな )される。 幼い頃に父を 亡 ( な )くすと 従父 ( おじ )の 諸葛玄 ( しょかつげん )と共に 劉表 ( りゅうひょう )を頼って 荊州 ( けいしゅう )に移住し、 崔州平 ( さいしゅうへい )や 徐庶 ( じょしょ )らと親交を持って農耕生活を送っていた。 「 三顧 ( さんこ )の礼」をもって 劉備 ( りゅうび )の 軍師 ( ぐんし )に 迎 ( むか )えられると、 蜀漢 ( しょくかん )の建国に多大な貢献をする。 劉備 ( りゅうび )が 崩御 ( ほうぎょ )すると 丞相 ( じょうしょう )として 劉禅 ( りゅうぜん )をよく補佐し、 国是 ( こくぜ )である北伐を行うが、5度目の出陣中に 病 ( やまい )に倒れて陣中で 没 ( ぼっ )した。 曹嵩 ( そうすう )・ 巨高 ( きょこう ) 豫州 ( よしゅう )・ 沛国 ( はいこく )・ 譙県 ( しょうけん )の人。 曹操 ( そうそう )の父。 宦官 ( かんがん )・ 曹騰 ( そうとう )の養子となって 司隷校尉 ( しれいこうい )、 大鴻臚 ( だいこうろ )、 大司農 ( だいしのう )を歴任し、実に1億銭を 霊帝 ( れいてい )に献上して 太尉 ( たいい )に就任する。 晩年は戦乱を 避 ( さ )けて 徐州 ( じょしゅう )・ 琅邪国 ( ろうやこく )に避難していたが、 兗州 ( えんしゅう )に地盤を得た 曹操 ( そうそう )の元に向かう途中、 陶謙 ( とうけん )の兵に襲われて殺害された。 曹節 ( そうせつ )・ 漢豊 ( かんほう ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 新野県 ( しんやけん )の人。 宦官 ( かんがん )。 順帝 ( じゅんてい )の時に 西園騎 ( せいえんき )から 小黄門 ( しょうこうもん )となり、 桓帝 ( かんてい )が崩御すると 中黄門 ( ちゅうこうもん )、 虎賁 ( こほん )、 羽林 ( うりん )1,000人を 率 ( ひき )いて 劉宏 ( りゅうこう )( 霊帝 ( れいてい ))を迎える。 竇武 ( とうぶ )・ 陳蕃 ( ちんはん )らの 宦官 ( かんがん )一掃計画を察知すると逆に彼らを 誅殺 ( ちゅうさつ )し、政治の実権を握って権勢を 誇 ( ほこ )った。 孫夏 ( そんか ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )で蜂起した黄巾賊・ 張曼成 ( ちょうまんせい )の将。 『 三国志演義 ( さんごくしえんぎ )』では 孫仲 ( そんちゅう )として登場する。 張曼成 ( ちょうまんせい )、 趙弘 ( ちょうこう )の後を 継 ( つ )いだ 韓忠 ( かんちゅう )は城を捨てて撤退。 朱儁 ( しゅしゅん )の攻撃を受けて降伏するが、 南陽太守 ( なんようたいしゅ )・ 秦頡 ( しんけつ )が降伏した 韓忠 ( かんちゅう )を殺害したため、 孫夏 ( そんか )は兵をまとめて再度 宛県城 ( えんけんじょう )に 籠 ( こ )もった。 その後、 孫堅 ( そんけん )の攻撃に耐えきれず城を捨てて逃亡するが、 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 西鄂県 ( せいがくけん )の 精山 ( せいざん )で討ち取られる。 17歳の時に 銭唐県 ( せんとうけん )で海賊退治をしたことで名を挙げ、その後は 会稽郡 ( かいけいぐん )で起こった 許昌 ( きょしょう )の乱をはじめとする各地の反乱の鎮圧で活躍した。 また、 袁紹 ( えんしょう )を盟主とする反 董卓 ( とうたく )連合に応じて挙兵し、 袁術 ( えんじゅつ )の下で積極的に戦って 華雄 ( かゆう )を討ち取った。 袁紹 ( えんしょう )と 袁術 ( えんじゅつ )の対立が深まると、 袁術 ( えんじゅつ )の命によって 袁紹 ( えんしょう )派の 劉表 ( りゅうひょう )を攻めるが、 黄祖 ( こうそ )の部下が放った矢によって命を落とした。 檀石槐 ( たんせきかい ) 鮮卑 ( せんぴ )族の 大人 ( たいじん )。 父・ 投鹿侯 ( とうろくこう )が3年間 南匈奴 ( みなみきょうど )に従軍している間に生まれる。 不義の子として殺されかけるが、母の「口に入った 雹 ( ひょう )を飲み込んだところ 身籠 ( みご )もったので、きっと非凡な人物になるでしょう」という助命嘆願によって、母は離縁され 檀石槐 ( たんせきかい )の命は助けられた。 その後、勇健で知略に富んだ 檀石槐 ( たんせきかい )は部族内で 推 ( お )されて 大人 ( たいじん )となる。 初めて 鮮卑 ( せんぴ )族を統一し、 扶余 ( ふよ )・ 丁零 ( ていれい )・ 烏孫 ( うそん )を 討 ( う )って内外モンゴル一帯を支配すると、たびたび 後漢 ( ごかん )領内に侵入・略奪をくり返し、討伐軍を 退 ( しりぞ )けた。 ち 种暠 ( ちゅうこう )・ 景伯 ( けいはく ) 司隷 ( しれい )・ 河南尹 ( かなんいん )・ 洛陽県 ( らくようけん )の人。 益州刺史 ( えきしゅうしし )を務めていた時、 蜀郡太守 ( しょくぐんたいしゅ )が 曹騰 ( そうとう )に私的に送った書簡を手に入れ 蜀郡太守 ( しょくぐんたいしゅ )と 曹騰 ( そうとう )を 弾劾 ( だんがい )したが、逆に 曹騰 ( そうとう )はこの行為を 褒 ( ほ )め 称 ( たた )え、その後も 种暠 ( ちゅうこう )を厚く遇した。 後 ( のち )に 司徒 ( しと )となった 种暠 ( ちゅうこう )は「今の自分があるのは 曹常侍 ( そうじょうじ )( 曹騰 ( そうとう ))のお陰だ」と語った。 はじめ 公孫瓚 ( こうそんさん )に仕えたが、 後 ( のち )に 劉備 ( りゅうび )に仕える。 長坂 ( ちょうはん )の戦いでは、 曹操 ( そうそう )軍の激しい追撃の中 劉備 ( りゅうび )の妻子を守りきった。 また、 定軍山 ( ていぐんざん )の戦いではみごとな 空城 ( くうじょう )の計によって敵を退却させ、 劉備 ( りゅうび )に「 子龍 ( しりょう )は一身すべてこれ肝なり」と 称賛 ( しょうさん )される。 劉備 ( りゅうび ) 亡 ( な )き後も冷静な判断と実直な人柄で 劉禅 ( りゅうぜん )を支え、死後に 順平侯 ( じゅんぺいこう )の 諡号 ( しごう )を贈られた。 劉備 ( りゅうび )の挙兵以来、 関羽 ( かんう )と共に兄弟のように仕えた 万夫不当 ( ばんぷふとう )の豪傑。 長坂 ( ちょうはん )の戦いでは、 曹操 ( そうそう )軍から逃げる 劉備 ( りゅうび )を守るために 殿軍 ( しんがり )を 務 ( つと )め、一喝して 曹操 ( そうそう )軍を退けるなど、その勇名は敵味方に 轟 ( とどろ )いていた。 目上の者は 敬 ( うやま )うが、部下に対する苛烈な刑罰を改めることができず、 関羽 ( かんう )の 弔 ( とむら )い合戦の前に恨みを抱いていた部下の 范彊 ( はんきょう )・ 張達 ( ちょうたつ )に殺害された。 『三国志演義』での 字 ( あざな )は 翼徳 ( よくとく )。 太平道 ( たいへいどう )の開祖・ 張角 ( ちょうかく )の弟。 張梁 ( ちょうりょう )の兄。 張角 ( ちょうかく )が黄巾の乱を起こすと 地公将軍 ( ちこうしょうぐん )と称してこれに従った。 朝廷より討伐軍が派遣されると、病床の 張角 ( ちょうかく )の代わりに指揮をとった。 兄の 張角 ( ちょうかく )が病死し弟の 張梁 ( ちょうりょう )が戦死する中、 冀州 ( きしゅう )・ 鉅鹿郡 ( きょろくぐん )の 下曲陽 ( かきょくよう )に籠城して最後まで抵抗したが、 皇甫嵩 ( こうほすう )率いる討伐軍に敗れて討たれた。 『三国志演義』では妖術を使って官軍を苦しめた。 陳温 ( ちんおん )・ 元悌 ( げんてい ) 豫州 ( よしゅう )・ 汝南郡 ( じょなんぐん )の人。 初平 ( しょへい )元年(190年)当時の 揚州刺史 ( ようしゅうしし )。 董卓 ( とうたく )が支配する 洛陽 ( らくよう )( 雒陽 ( らくよう ))から逃亡してきた 許靖 ( きょせい )を 匿 ( かくま )った他、 曹洪 ( そうこう )と親しく、 董卓 ( とうたく )に敗れた 曹操 ( そうそう )に 廬江郡 ( ろこうぐん )の精鋭武装兵・2,000人を援助した。 その死については、「 初平 ( しょへい )3年(192年)冬に病死」とする記録と、「 初平 ( しょへい )4年(193年)3月に 袁術 ( えんじゅつ )によって殺害された」とする記録がある。 杜喬 ( ときょう )・ 叔栄 ( しゅくえい ) 司隷 ( しれい )・ 河内郡 ( かだいぐん )・ 林慮県 ( りんりょけん )の人。 順帝 ( じゅんてい )に 泰山太守 ( たいざんたいしゅ )の 李固 ( りこ )を推挙し、 外戚 ( がいせき )・ 梁冀 ( りょうき )と関係のある地方官を次々に 弾劾 ( だんがい )した。 質帝 ( しつてい )が 梁冀 ( りょうき )に毒殺されると 李固 ( りこ )と共に 清河王 ( せいがおう )・ 劉蒜 ( りゅうさん )を 擁立 ( ようりつ )しようとするが、 蠡吾侯 ( れいごこう )・ 劉志 ( りゅうし )(後の 桓帝 ( かんてい ))を 擁立 ( ようりつ )しようとする 梁冀 ( りょうき )に敗れて殺害された。 な 『三国志演義』のみに登場する仙人。 張角 ( ちょうかく )に 『 太平要術 ( たいへいようじゅつ )の 書 ( しょ )』を 授 ( さず )ける。 「これを使って民を助けよ。 ただし、悪しきことに使えば天罰が下る」と忠告するも、 張角 ( ちょうかく )は 『 太平要術 ( たいへいようじゅつ )の 書 ( しょ )』で習得した妖術を頼りに 太平道 ( たいへいどう )を開き、黄巾の乱を引き起こした。 南華老仙 ( なんかろうせん )は、戦国時代の思想家である 荘周 ( そうしゅう )( 荘子 ( そうし ))が仙人になった姿と考えられており、青い目を持つ子供のような顔をした老人として描かれている。 李固 ( りこ )・ 子堅 ( しけん ) 益州 ( えきしゅう )・ 漢中郡 ( かんちゅうぐん )・ 南鄭県 ( なんていけん )の人。 大将軍 ( たいしょうぐん )・ 梁商 ( りょうしょう )に 辟召 ( へきしょう )されるが、 梁商 ( りょうしょう )の子・ 梁冀 ( りょうき )と対立した。 後に 太尉 ( たいい )に昇進する。 質帝 ( しつてい )が 梁冀 ( りょうき )に毒殺されると、 蠡吾侯 ( れいごこう )・ 劉志 ( りゅうし )(後の 桓帝 ( かんてい ))を 擁立 ( ようりつ )しようとする 梁冀 ( りょうき )に対抗して 杜喬 ( ときょう )と共に 清河王 ( せいがおう )・ 劉蒜 ( りゅうさん )を 擁立 ( ようりつ )するが、 冤罪 ( えんざい )によって投獄・殺害された。 前漢の 魯恭王 ( ろきょうおう )であった 劉余 ( りゅうよ )( 景帝 ( けいてい )の第4子)の 末裔 ( まつえい )に当たる。 霊帝 ( れいてい )の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響によって 刺史 ( しし )や 太守 ( たいしゅ )の支配力が弱体化していることを理由に、軍権と民政権を兼ねた「 州牧 ( しゅうぼく )」の復活を提案し、みずから 益州 ( えきしゅう )の 牧 ( ぼく )となる。 劉璋 ( りゅうしょう )の父。 『三国志演義』では、黄巾の乱の時に 幽州太守 ( ゆうしゅうたいしゅ )として登場するが、正史にその記録はなく、後に 益州 ( えきしゅう )を治めることになる 劉備 ( りゅうび )との因果関係を強める演出である。 劉悝 ( りゅうかい ) 桓帝 ( かんてい )の弟。 勃海王 ( ぼっかいおう )。 165年に反乱を計画した罪で 廮陶王 ( えいとうおう )に格下げされる。 中常侍 ( ちゅうじょうじ )の 王甫 ( おうほ )に 勃海王 ( ぼっかいおう )への復帰工作を依頼していたが、 桓帝 ( かんてい )の 遺詔 ( ゆいしょう )によって復帰が 叶 ( かな )うと( 王甫 ( おうほ )のお陰ではないからと) 王甫 ( おうほ )に礼金を支払わなかった。 これを 恨 ( うら )みに思った 王甫 ( おうほ )は「 劉悝 ( りゅうかい )に帝位 簒奪 ( さんだつ )の 企 ( たくら )みあり」と 誣告 ( ぶこく )し、追い 詰 ( つ )められた 劉悝 ( りゅうかい )は自害に追い込まれる。 東海恭王 ( とうかいきょうおう )・ 劉彊 ( りゅうきょう )[ 後漢 ( ごかん )の初代皇帝・ 光武帝 ( こうぶてい ) ( 劉秀 ( りゅうしゅう ))の長子]の 末裔 ( まつえい )に当たる。 清貧で知られ、 幽州牧 ( ゆうしゅうぼく )に任命されて「 張純 ( ちょうじゅん )の乱」を平定。 反 董卓 ( とうたく )連合が決起すると、 袁紹 ( えんしょう )らに 天子 ( てんし )に 推戴 ( すいたい )されるが、これを拒絶した。 その後、暴走する 公孫瓚 ( こうそんさん )討伐の軍を起こすが、敗れて捕らえられ、帝号を 僭称 ( せんしょう )しようとした罪で処刑された。 前漢の 景帝 ( けいてい )の第4子・ 魯恭王 ( ろきょうおう )・ 劉余 ( りゅうよ )の第6子、 郁桹侯 ( いくろうこう )・ 劉驕 ( りゅうきょう )の子孫。 若い頃から清流派の党人として名声を得る。 孫堅 ( そんけん )によって 荊州刺史 ( けいしゅうしし )・ 王叡 ( おうえい )が殺害されると、その後任に任命される。 また、 劉表 ( りゅうひょう )は学問を 奨励 ( しょうれい )したため、戦乱を逃れた名士や学者の多くが 荊州 ( けいしゅう )に移住した。 河北 ( かほく )を平定した 曹操 ( そうそう )が南下の姿勢を見せると、領土を失った 劉備 ( りゅうび )を受け入れて最前線の 新野県 ( しんやけん )を守らせるが、間もなく亡くなった。 前漢の 景帝 ( けいてい )の第9子、 中山靖王 ( ちゅうざんせいおう )・ 劉勝 ( りゅうしょう )の庶子、 劉貞 ( りゅうてい )の末裔というが、定かではない。 黄巾の乱の時に挙兵。 以来各地を転戦するも確たる地盤を持てずにいたが、 軍師 ( ぐんし )・ 諸葛亮 ( しょかつりょう )を迎えると「天下三分の計」に従って 益州 ( えきしゅう )の地に地盤を築いた。 献帝 ( けんてい )が 曹魏 ( そうぎ )に 禅譲 ( ぜんじょう )すると、皇帝に即位して「 蜀漢 ( しょくかん )」を建国する。 配下の 関羽 ( かんう )の 仇討 ( かたきう )ちに 呉 ( ご )に攻め込むが、 陸遜 ( りくそん )の火計に敗退し、病を患って 白帝城 ( はくていじょう )で 諸葛亮 ( しょかつりょう )に後事を託して没する。 梁冀 ( りょうき )・ 伯卓 ( はくたく ) 涼州 ( りょうしゅう )・ 安定郡 ( あんていぐん )・ 烏枝県 ( うしけん )の人。 後漢 ( ごかん )第8代皇帝・ 順帝 ( じゅんてい )の 皇后 ( こうごう )・ 梁妠 ( りょうどう )の兄。 外戚 ( がいせき )として権力を握り、 順帝 ( じゅんてい )、 冲帝 ( ちゅうてい )、 質帝 ( しつてい )、 桓帝 ( かんてい )の4代に渡って国政を私物化した。 成人した 桓帝 ( かんてい )が 宦官 ( かんがん )・ 単超 ( ぜんちょう )らの助力を得て 梁冀 ( りょうき )の排斥に成功したことから、一層 宦官 ( かんがん )への権力集中が進んだ。 丁原 ( ていげん )に仕えていたが、 董卓 ( とうたく )が 洛陽 ( らくよう )に入ると 丁原 ( ていげん )を殺して 董卓 ( とうたく )に従い、父子の 契 ( ちぎ )りを結ぶ。 「人中に 呂布 ( りょふ )あり、馬中に 赤兎 ( せきと )あり」と賞された万夫不当の豪傑。 その後、 司徒 ( しと )・ 王允 ( おういん )らと結んで 董卓 ( とうたく )を殺害するが、 李傕 ( りかく )・ 郭汜 ( かくし )に敗れて各地を放浪、自分を受け入れてくれた 劉備 ( りゅうび )が治める 徐州 ( じょしゅう )を奪う。 その後 劉備 ( りゅうび )と結んだ 曹操 ( そうそう )に包囲されると配下の裏切りを受けて降伏するが、命 乞 ( ご )いも 空 ( むな )しく 劉備 ( りゅうび )の進言によって処刑された。 鄭玄 ( じょうげん )とともに 馬融 ( ばゆう )に師事して儒学を学び、故郷 幽州 ( ゆうしゅう )・ 涿郡 ( たくぐん )・ 涿県 ( たくけん )で近隣の子弟に学問を教えていた。 門下には 劉備 ( りゅうび )や 公孫瓚 ( こうそんさん )がいる。 黄巾の乱が起こると 北中郎将 ( ほくちゅうろうしょう )に任命されて討伐軍の一翼を担ったが、軍の監察に来た 左豊 ( さほう )に賄賂を求められ、これを断ったために罪を着せられて免官された。 黄巾の乱が終結すると、 皇甫嵩 ( こうほすう )が 冤罪 ( えんざい )を証明したために復職したが、 董卓 ( とうたく )の 献帝 ( けんてい ) 擁立 ( ようりつ )に反対したために再び免官された。 晩年は 袁紹 ( えんしょう )の 軍師 ( ぐんし )となって病死した。

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けんりゅう (潜水艦)

りゅう しょう げん せき

言笑自若とは 何があっても決して慌てず、落ち着いていること。 「言笑」は、喋ることと笑うこと。 また、笑いながら喋ること。 「自若」は、落ち着いていて、物事に動じない様子。 古代中国、三国時代。 蜀 しょくの武将、 関羽 かんうは、 戦 いくさで 肘 ひじに受けた流れ矢の毒が骨にまわり、その痛みに悩まされることが多かった。 あるとき、武将たちを招いた宴会の席に医者を招き、そこで骨を削る手術をすることにした。 医者が骨を削ると、血が溢れ出したが、関羽は平然として酒を飲み談笑していたという。 四字熟語 言笑自若 読み げんしょうじじゃく 出典 『三国志』蜀志 英訳 Be completely at ease 類義語• 対義語• 使用漢字 、、、.

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