真岡 小学校。 栃木県真岡市の小学校一覧

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真岡 小学校

概要 [ ] 農業・商業・工業のバランスのとれた市の中心都市である。 地名の「真岡(もおか)」の由来は、市街の中心部にあたる「台町」一帯の丘は、かつて、沼や沢で覆われ、水鳥たちの生息地になっていたとか、台地にそびえる松などの木々には、鶴が飛来し、その舞い飛ぶ様があまりにも美しいので人々はいつからか、「ツルの舞う丘」、「舞丘(まいおか)」と呼ぶようになって、舞丘が「もうか」といわれるようになり、「真岡」と書かれるようになったなどともいわれる。 そのほかにも、高館、真 ん中の 岡、下館と上流・中流・下流にある武力闘争用の家城から真岡と呼ばれるようになったとする地元郷土史研究家 学校職員 もいる。 台町のバス通りが窪地になっていて、堀を形成している。 小学校の他の方角は沼地、川などの自然の要塞を構築しているから、という小中学生の公演をしていた。 すなわち、「 もおかし(真岡市)」と発音した際の「もおか」の発音である。 先に述べたように、真岡市は栃木県と茨城県の県境に存在する旧芳賀郡に属する。 方言としては、関東北部の「単語のどこを高くするという決まりが無い無アクセント」と言われている地区である。 芳賀郡時代からの住民は「も」に強いアクセントを持つ言葉を使い続けていた。 一方「より内陸型の」が建設され各地から転勤などにより居住するような人々は、生まれ育った地区の言葉を使い「おか」にアクセントを持つ言葉を使っている。 生粋の芳賀地方の方言を話す I音とE音を区別せずae音を使う、語尾をほぼ発声しない、唇をほぼ開かないで話す等 と多くの人々には通じない。 結果として、「も」にアクセントを持つ人々の言葉が理解されない社会が形成されつつある。 真岡市街は、中心部から南東へ、概ね15kmから20kmの範囲に収まる。 また、宇都宮市への通勤率は11. なお、読みは「もおか」「もうか」の2種類がある。 駅名は「もうか」を採用していたが、真岡線が国鉄よりに移管された際に「もおか」に変更。 行政的には「もおか」に呼称が統一された。 案内標識の表記は「Mooka」ではなく「Moka」となる。 地理 [ ]• 同県の南東部、関東平野の北のはずれにある。 東京からは、およそ100kmの距離。 西から鬼怒川低地、真岡台地、五行川低地が連なり、低地域では稲作が盛んである。 市の東部は標高 150 - 280m 程度の八溝山地の一端がかかる。 山:、• 歴史 [ ]• 旧石器時代:磯山遺跡• 縄文時代:市内各所に遺跡あり。 特に五行川に流れ込む小河川によって形作られる舌状台地上に分布する。 弥生時代:集落遺跡や土器散布地が多数見られる。 古墳時代:瓢箪塚古墳、稲荷山古墳(方形周溝墓が検出、高勢町に公園として整備)、鶏塚古墳• 奈良時代:中村廃寺(倉庫址が出土 廃寺ではない)、大内廃寺、かつては中村地区に遺構が残っていた。 鎌倉時代:跡(現、方形の土塁・堀が見られる)• 室町時代:の家臣がこの地方を治める。 安土桃山時代:13年(1544年)、主によって宇都宮家臣中村日向入道玄角が拠るが落城、中村十二郷が下館領となる。 宇都宮氏の取りつぶしにより芳賀氏の支配が終わる。 江戸時代:当初が入所したが、のちにになる。 真岡代官所()配置。 の知行所も点在。 後期は、荒廃した知行所再興の為、主から派遣されたが、桜町陣屋、東郷陣屋にてを施す。 明治時代:郡役所が設置(明治以前はであった)。 1912年にはと真岡の間に鉄道が敷設される。 大正時代:鉄道が茂木まで延伸される。 昭和時代:中、市街地南部に疎開企業として日本蓄音機(コロムビア)が進出。 1954年3月に真岡町、、、の一町三村が合併し、同年10月に 真岡市となる。 平成時代:、隣接するを編入。 行政区域変遷 [ ]• 変遷の年表 真岡市市域の変遷(年表) 年 月日 現真岡市市域に関連する行政区域変遷 (明治22年) 施行により、以下の町村が発足。 旧真岡市• 久下田町・長沼村・物部村とともに合併し が発足。 久下田町は消滅。 真岡町は市制施行し 真岡市になる。 (平成21年) 二宮町が真岡市に編入される。 (旧)真岡町長 代 氏名 就任 退任 備考 1 坂入重郎 1889年(明治22年) 1890年(明治23年) 2 大島東太郎 1891年(明治24年) 1892年(明治25年) 3 坂入重郎 1893年(明治26年) 1904年(明治37年) 4 楡井謙吉 1905年(明治38年)10月27日 1913年(大正2年)8月6日 5 久保六平 1913年(大正2年)9月15日 1914年(大正3年)9月11日 6 神田道堅 1914年(大正3年)9月28日 1926年(大正15年)9月30日 7 飯田源次郎 1926年(大正15年)10月1日 1930年(昭和5年)9月30日 8 高松甚一郎 1930年(昭和5年)10月1日 1934年(昭和9年)9月30日 9 飯野源次郎 1934年(昭和9年)10月8日 1938年(昭和13年)10月7日 10 鈴木竹蔵 1938年(昭和13年)10月24日 1942年(昭和17年)10月23日 11 岡部完介 1942年(昭和17年)10月24日 1944年(昭和19年)8月21日 12 石川清次郎 1944年(昭和19年)10月16日 1945年(昭和20年)11月21日 13 小菅彦四郎 1945年(昭和20年)12月21日 1946年(昭和21年)12月5日 14 飯山貞三郎 1947年(昭和22年)4月6日 1950年(昭和25年)11月16日 15 神保房吉 1950年(昭和25年)12月21日 1954年(昭和29年)3月30日• 代 氏名 就任 退任 備考 1 菊地幸作 1954年(昭和29年)5月10日 1962年(昭和37年)5月9日 1954年10月1日から市長 2 1962年(昭和37年)5月10日 1977年(昭和52年)5月14日 3 中里精 1977年(昭和52年)5月15日 1981年(昭和56年)5月14日 4 菊地恒三郎 1981年(昭和56年)5月15日 2001年(平成13年)5月14日 5 福田武隼 2001年(平成13年)5月15日 2009年(平成21年)5月14日 6 2009年(平成21年)5月15日 2017年(平成29年)5月14日 7 2017年(平成29年)5月15日 現職• (旧)真岡町長の出典:『栃木県町村合併誌 第一巻』, p. 261-262• 真岡市(町)長の出典:『日本の歴代市長 第一巻』, p. 613-615、(真岡市ホームページ) 議会 [ ] 定数:21 行政機関 [ ] 警察 [ ]• 消防 [ ]• 真岡消防署• 真岡西分署・二宮分署 経済 [ ] [ ] としては、やがある。 造り酒屋は数軒存在したが現在は1社のみである。 、この地が集散地となった真岡木綿は最盛期37万反を産したが、にともなう海外木綿の流入により以降は生産量が激減し、の自家消費程度の生産しかされなくなった。 近年、真岡木綿の復興が図られかつての経験者により技術伝承の努力がなされている。 技術支援にの繊維産業従事者の支援を受けている。 製品は物産会館などで購入することができる。 より内陸型のが計画され造成が進んだ。 立地としては、当時農業以外に産業が少なく農家の次三男などの余剰労働力を多く抱え過疎化が進行していたこと。 広範囲に平地林(雑木林)が存在したが、エネルギー革命(薪炭革命)や化学肥料の普及により枯れ葉の堆肥化や薪炭の利用がされず造成適地として残っていたこと。 が近くを流れを得やすかったこと。 から100キロ圏内で製品輸送の便がよかったことなどにより、折からのに乗って多数のが進出してきた。 市西部の台地に進出した企業は、隣町のにの栃木工場、にの栃木研究所があることから自動車の関連企業が多い。 他に、、(アルミ圧延)、などの工場も立地している。 地元真岡市から工業団地に入った企業は当初2社と少ない。 現在第4・第5工業団地を造成している。 地方都市として小規模な商店街が中心部にある。 から大規模小売店が進出、その後駅西の区画整理事業地内に広大なをそなえた郊外型の(真岡店 )が進出した。 都市計画道路沿いを中心に専門店も進出している。 市中心部の個人商店を中心とした商店街は、店を閉めた所が何軒かあるが、シャッター街も寂れた町並みもなく、市の商業地区全体としてはの建物が多い綺麗な街並みとなっている。 大型店に対抗して地元商店が商業協同組合によるショッピングセンターを建設したが、そのほとんどが閉店、現在は北真岡地区に一店舗を残すのみである。 2005年夏に(子会社)の工場跡地に真岡店がオープンした。 耕地は水田が主である。 作物としてはのほか、、、など。 真岡市が芳賀地区の中心となっているため「JAはが野」の本所や集荷施設なども存在している。 施設園芸作物の生産は盛んである。 工業団地 [ ] 第一、第二、第三は沿線に、第四は沿線に、第五はに隣接して造成。 真岡第一工業団地(松山町):面積174. 5ha。 1965年起工。 、、、、、、、ケミカル、、神和アルミ、フィルターシステムズなどが立地。 真岡第二工業団地(鬼怒ヶ丘):面積130. 9ha。 1967年起工。 真岡製造所、、サーモエンジニアリング、、日本デキシー、富士ファイバーグラス、栃木カネカなどが立地。 真岡第三工業団地:面積14. 4ha。 コマツ真岡工場(2010年撤退)などが立地。 真岡第四工業団地:面積42. 7ha。 森六生産事業本部、カナエ、、真岡工場などが立地。 真岡第五工業団地:面積91. 2ha。 整備中。 姉妹都市・提携都市 [ ]• ( )• ( ) 地域 [ ] 町名一覧 [ ] 電話番号 [ ] 一部地域(後述)を除く市内全域が真岡の管轄となり、市外局番は「0285」。 収容局は以下の3ビルが該当し、市内局番は以下の通り。 真岡局:80-85• 栃木二宮局:73,74• 物部局:75 下記地域は真岡市外の収容局が管轄となる。 益子局(真岡MA):青谷の一部地域が該当。 交通 [ ] 鉄道 [ ]• 旧・国鉄真岡線を承継した第三セクター。 週末を中心にイベント列車として「」が運転されている。 ()から延びるであり、沿線住民が鉄道を使用して真岡線以外の駅へ行くには、必ず下館駅での乗換えを伴う。 県庁所在地のに直結していないほか、国鉄時代は直通列車が運行されていたに対しても乗り換えを伴うなど、県内他地域への移動に便利とはいえず、利用者数は漸減傾向である。 その他に真岡市内からバスや車を利用して片道30分程度でJR線が発着するやへ行く事が可能である。 バス [ ] 路線バス [ ] 一般路線の運行はが担当。 宇都宮東武行き• 石法寺経由 - - 真岡営業所 - 真岡市役所前 - 石法寺 - 鐺山(こてやま) - JR - - 西原車庫 真岡営業所 - 真岡市役所前 - 芳賀赤十字病院 - 石法寺 - 鐺山 - JR宇都宮駅 - 宇都宮東武 真岡営業所 - 真岡市役所前 - 井頭一万人プール - 石法寺 - 鐺山 - JR宇都宮駅 - 宇都宮東武 井頭一万人プール経由は夏季のみの季節運行。 水橋経由 - - 国道123号 真岡営業所 - 真岡市役所前 - 真岡駅 - 北真岡駅 - 橋場 - 鐺山 - JR宇都宮駅 - 宇都宮東武• 亀山経由 - - - 真岡営業所 - 真岡市役所前 - 亀山 - 石法寺 - 鐺山 - JR宇都宮駅 -宇都宮東武• また、距離制運賃のため乗車区間によっては片道1,000円以上かかることもある。 が利用可能。 (いちごバス) - 2019年運行開始。 廃止路線 [ ]• (2019年にいちごバスに再編の上で廃止)• 岩瀬行き 東野バス台町車庫-益子町田野-岩瀬車庫、県境迄運航していたがその後廃止• 祖母井行き 東野バス台町車庫-三本木-赤羽十文字-祖母井車庫• 祖母井行き 東野バス台町車庫- 北真岡駅 - 橋場-祖母井車庫• 第二工業団地行き 詳細不明• 宇都宮-下館線 東武バス 田町-東武宇都宮間は石法寺経由宇都宮東武行きと同路線。 田町交差点から国道を通って下館に向かう路線• 茂木行き 東野バス台町車庫 又は荒町車庫-真岡駅-荒町車庫 -三本木-西田井駅前 バス停は243号線沿い -益子車庫- この区間は益子車庫-東武宇都宮等と重複 -七井郵便局- 富士山を通る路線から七井中学校入口を通る路線に変更になった -益子町青田-茂木町天矢場- この区間は国鉄バスと重複 -茂木車庫 高速バス [ ] かつては真岡発着の高速バスがあったが、2006年ごろに相次いで廃止されている。 茂木・益子・真岡・上三川IC入口 - 東京駅(八重洲通り)・浜松町バスターミナル 東野交通の単独運行だった。 真岡 - 下館駅 - 小山駅 - 栃木駅 - 京都駅 - 大阪・USJ 夜行高速バス「」の一路線。 関東自動車と近鉄バスの共同運行だった。 2009年9月17日から経由で - を結ぶが運行されているが、現時点では真岡市内は通過となっている。 2015年9月11日からは鹿沼・宇都宮からの線が真岡市内に停車する。 道路 [ ]• (鬼怒テクノ通りに接続)• 294号バイパス(真岡バイパス)• (真岡バイパス、真岡北バイパス)• 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 [ ]• 真岡の夏祭り• (日本一の像)• 夏越祭(7月31日) 例大祭(11月9・10日)• 県が管理する大規模都市公園、夏は一万人プールがにぎわう。 隣接地に真岡井頭温泉がある。 中村八幡神社• 流鏑馬• 真岡観光リス村• :県史跡• 久保記念観光文化交流館(さだじろう記念館)• さむらい刀剣博物館• 真岡鐵道 真岡駅に併設されたSLミュージアム。 出身有名人 [ ]• (女優:の小中学校に通学)• (ピン芸人)• (フードファイター)• (・・元、現・、3大会連続・の夫)• (サッカー選手)• (プロボクサー)• (日光開山の祖)• (声優)• (力士)• (アナウンサー)• (アナウンサー)• (競泳選手) その他 [ ]• もおかぴょん - 脚注 [ ] []• 角川日本地名大辞典編纂委員会『 9 栃木県』、、1984年 より• 日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、、2006年、 より• 真岡市. 2019年5月13日閲覧。 2011年3月11日に発生したの影響で同月25日をもって閉店。 「321-44xx」地域は元・飯貝郵便局管轄。 2003年に飯貝郵便局の無集配局化に伴って真岡郵便局へ移管。 参考文献 [ ]• 『栃木県町村合併誌 第一巻』 栃木県、1955年4月。 『日本の歴代市長 第一巻』歴代知事編纂会 、1983年11月25日。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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真岡城 芳賀城 余湖 真岡市 *参考サイト *参考資料 「芳賀の文化財」 真岡城(芳賀城・真岡市台町字城内)・真岡陣屋 真岡城は真岡市の中心部にある。 が城の中心部分である。 しかし、ここは公園化がひどい。 ここに来る前に上三川城を見て、「こういう公園化はいまいちだなあ」と思っていたのだが、ここに比べたら上三川城の公園化はまだかわいいほうかもしれないと思ったのであった。 ここの城址公園は旧状を改変しまくりである。 東側の城塁には高石垣が組まれ、滝が落ちている。 城塁から滝があふれ出している城などあるものだろうか。 まあ、公園化しようと思った時にはすでに小学校ができていて、遺構保存の手立てもなかったのかもしれないが、それにしても・・・・・・・。 鳥瞰図は西方上空から見たものである。 本丸から三の丸までは現在はすべて真岡小学校の敷地となってしまっているのだが、ここに3つの郭があったということなので、このように連郭式に配置されていたのであろう。 城塁の北側と西側に横矢的な折れが残存していることから、郭の間にあった堀にも横矢があったであろうと想像する。 城の東側には五行川の支流が来ている。 この支流は城の近くで分流して、この後また本流に合流していることから、城の堀とするためにここまで延長してきたものだと思われる。 かつて堀は城の西側まで取り巻いていたらしいので、この川の水をさらに城全体に回していたのではないかと考えられるだろう。 特に本丸の西側は二重堀であった可能性が高い。 本丸の北側には腰曲輪があり、東北部に虎口のような部分を持つ。 これが搦め手であろう。 これに対して大手口は四の丸の先の南側にあったと思われる。 本丸の北西部下は空堀があり、これには横矢の折れがはっきり認められる。 また西側には横矢構造で15mほどポツンと飛び出した部分が現存している。 真岡小学校東側の城塁。 きれいな庭園となり、2筋の滝が城塁から溢れ出す・・・・ってそんな城じゃなかったはず。 城塁がもう少し旧状を維持してくれれば、少しは間の堀切の箇所が分かったかもしれないのだが・・・・・・。 この状態を見て「城らしいなあ」と感じる人はいないだろう。 搦め手の虎口(あ)。 本丸の城塁と、その北側の櫓台との間が切通しのようになっている。 本丸北側の土塁。 小学校化に伴って大分削られているとは思うが、現状でもちゃんと城塁らしく見える。 (い)の部分の空堀。 下の腰曲輪はこの部分で土橋のように高くなっているので、ここが必然的に空堀となる。 ここがこの城ではもっともよく遺構が残っている部分であろう。 よく見ると左手の城塁が「く」の字に折れているのが分かる。 案内板には真岡城は「五角形の城であった」と書いてあったが、それはこの辺りの形態も含めて本丸が五角形に近い形をしていたからであろう。 堀の深さ7m、幅12mほど。 本丸西側の堀跡(う)。 ここは泥田堀であったような気がする。 この辺りの城塁は下から6,7mの高さである。 上の堀を南に進んでいくと横矢的な張り出し(え)の所に出る。 鳥瞰図の(お)の部分には現在家が立ち並んでいるのであるが、そこが一段高くなっているので、図のようにこの辺りはこのような二重堀構造となっていたのではないかと推測される。 横矢部分をもっと西側のほうから見た所である。 真岡城は宇都宮氏の重臣であった芳賀氏の城であった。 芳賀氏の祖先は滝口武者清原高澄であるといわれ、かなり古い歴史を持つ一族である。 清原氏を祖とする芳賀氏は「清党」と呼ばれ、紀氏を祖先とする「紀党」の益子氏と共に宇都宮氏の両翼となり、各所の戦いに戦功を挙げた。 しかし、慶長2年、宇都宮氏が改易になると、芳賀氏も追放され、城は廃城となった。 ただし、一部は代官所となり( 真岡陣屋)、それ以降も用いられたという。 中村城のラフスケッチ。 方100mほどの単郭方形の居館である。 規模からするといかにも豪族の居館という雰囲気である。 特徴的なのは北側で、堀と土塁が二重になっている。 北側の防備だけが特に厳重になっている理由は何であろうか。 あるいは他の方向にも、もう少し防御構造物があったのかもしれない。 中村城は中村南小学校の北500mの所にある。 遍照寺の境内が城址で昭文社の地図にも載っているので、探すのは容易であろう。 基本的に単郭方形の館である。 方200m近くある。 周囲の堀はほぼ残っているが、夏草が多く茂っていて、この季節はなかなか遺構が見にくい。 写真は北側の塁上に立つお堂。 土塁が盛り上がり、櫓台のように見える。 この外側の堀は深さ3m、幅5mほどである。 その堀の外側にも土塁がある。 南西の角辺りの堀。 この辺の堀が一番見やすい。 郭内には土塁が見られないが、畑を耕したときに削ってしまったものだろうか。 遍照寺入口にある城址碑。 中村城を築いたのは中村朝宗である。 中村氏は摂関家荘園中村領を管掌しており、この館は荘園管理施設として始まったものと思われる。 その後中村氏は南北朝期には南朝に属し、戦国期になると宇都宮氏に属した。 天文13年(1544)、芳賀領進出を狙う下館城主水谷蟠龍斎は中村城を襲撃、城主中村日向入道玄角は討ち死に、その子小太郎時長は陸奥に脱出して米沢城の伊達氏に仕えたという。 八木岡城は五行川沿いでにある。 の記述を頼りに探したのだが、浄水場の反対側の南西方向を探していたので見つかるはずもない。 場所をtakeさんに教えてもらったので詳細は後日である。 その後、ウモ殿と訪れ(2003年9月)、大体の遺構を確認した。 深い空堀や土塁、櫓台、水堀なども残っているが、現在残っている部分は南北にのみ細長く、郭らしい体裁をなしていない。 おそらく後世の改変でかなり地形が変ってしまっているのだと思う。 というわけで、本来の形状はよく分からない。 戦後直後の航空写真をみると、五行川は、現在とは異なり、かなり蛇行している。 戦後の耕地整理の際に、五行川の流路をかなり改変しているようだが、その際に城址の大部分も削り取られてしまっているのであろう。 古い航空写真では、五行川が東に蛇行する部分に城は築かれていたようで、現在対岸にある星宮神社なども、本来は城域であったものと思われる。 櫓台の上から堀底を見た所である。 6mほどの高さはある。 下のほうではウモ殿が写真を撮っている。 堀底から堀内部の様子を見た所。 写真のように横矢も掛けられており、設計の新しさを感じることができる。 八木岡城は鎌倉時代に芳賀一族の八木岡高房によって築かれたのに始まるという。 南北朝時代には北朝に属した城として春日中将に攻められている。 戦国期には真岡城の支城であったが、芳賀氏は水谷蟠龍斎と激しく争い、彼によって攻められたりもしている。 京泉館はにあった平城であったという。 かつては二重の堀を巡らせた城館であったというが、現在では耕地整理のために消滅してしまった。 昭和8年頃までは二重の堀が残っていたというが、もう古い話である。 戦後直後の航空写真をみても、すでに堀の跡は認められない。 昭和8年の破壊ということだから、当然といえば当然であるが・・・・。 京泉地区には、用水として使用されている小川が二本、南北に流れているが、これがまるで堀のようにも見える。 写真がそれである。 城館とはまったく関係がないのかもしれないが、もとの城館がこうした小川の水を堀に取り入れていたのかもしれない。 城の歴史については諸説があるが、有力なのが、芳賀氏が居城していたという説である。 芳賀氏といえば真岡城(芳賀城)がその居城であるが、それ以前には御前城にいた。 そのさらに以前に居城としていたのが京泉館だったというのである。 城については案内板も何もないが、この近くに大内廃寺の跡があり、これについては案内表示があちこちに置かれている。 大内寺は芳賀郡の郡寺という位置づけであり、史跡としての意義は大きいと、案内板にあった。 (京泉館は重要ではないらしい・・・・。 ) 河川改修の際には南大門跡、中門跡、回廊跡などが発見されているという。 御前城は、現在、にあったらしい。 2004年8月28日、秋の運動会の練習をしているらしく、生徒たちがグランドでダンスをしている。 校門のところにたまたま先生がいたので、御前城のことを伺ってみた。 しかし、この先生、城のことはよく分からないようだった。 「校庭のどこかに案内板が立っていませんか?」と質問したのだが 「そういうものは見たことがないですねえ」と言われてしまう。 しかし、校庭の南側に回ってみたら、市の立てた立派な城址碑と案内板がはっきりと見えるではないか! こんなに目立つのに、ここで勤務している先生が気づかないとは信じられないような話だ。 その学校の先生とはいえ、関心がない人の目には、こういうものも入ってこないのだろう。 それを考えると、各地の城址で、遺構が残っているにもかかわらず、そこの住人が知らないというようなことがよくあるのも仕方ないことなのかもしれない。 御前城は、平安時代最末期の建久年間に芳賀氏によって築かれたものである。 芳賀高親は、の合戦で戦功を上げ、その賞として旗を拝領したという。 御前城はその頃に築かれたと想像されるので、恩賞などをもらったことが、そのきっかけとなっているのかもしれない。 その後、御前城は芳賀氏代々の居城となる。 天正年間、芳賀氏は真岡城を築いて、そちらへ移っていく。 それに伴って御前城も廃城となったのであろう。 芳賀東中学校の校庭の南側の端に立っている案内板。 学校の敷地内であるが、この案内板を部外者が見られるように、脇に入れるスペースを空けてくれているのがうれしい。 案内板にあった図面。 中学校の敷地がそのまま城域だったらしい。 学校の敷地に沿って堀があったようだが、現在では、明確な遺構は見られない。 籠谷館は、にあったという。 「芳賀の文化財」の地図を見ると、写真の台地辺りがそうかなと思われるのであるが、はっきりと館跡の場所を確認することはできなかった。 現在は宅地造成のために土取りをし、高さも低くなって面影を失ってしまっているという。 以前は深さ1.2mの堀と、高さ1mほどの土塁が残っていたという。 地元の土豪籠谷氏の居館であったと想像される。 上記の無量寿寺の大檀那が籠谷伊勢守政高である。 また康暦2年(1380)、正月の宇都宮基綱と小山義政の裳原合戦(河内郡)に際して、宇都宮氏の先隊34人の将の中に籠谷伊勢守の名が見えるという。 その頃から籠谷氏代々の居館となっていたのであろう。 文禄元年(1592)、朝鮮出兵に際して、宇都宮国綱・芳賀高武のお共として籠谷伊勢守が出陣した。 「今宮祭祀録」) 伊勢守は籠谷氏の代々の官職名であったようである。 慶長2年に宇都宮氏が改易となると、籠谷氏も没落したと考えられる。 に東郷陣屋があったという。 県道の南側には方形の堀があったらしいが、宅地化や耕地整理で遺構は失われてしまっている。 しかし、微妙な段差はまだ見られる。 とはいえ、04. 28現在も宅地化のための工事は行われているようなので、現在見られる段差は遺構ではなく、造成工事によって生じたものなのかもしれない。 県道脇の藪の中にはまだ何かあるかもしれないが、きちんと確認していない。 東郷陣屋は寛政12年(1800)、岸本武大夫就美によって建てられたものである。 岸本は御料所立会支配を命じられていたが、寛政11年に陣屋の建築を願い出て認められ、幕府の費用で建設されることとなった。 弘化5年(1848)、山内甚五左衛門は真岡陣屋、東郷陣屋の支配を統合したが、東郷陣屋はその後も存続し続け、明治維新に至ることとなる。 岸本氏の支配地域は、東郷、中郷、西郷、亀山、高岡、君島、大島、沖杉、飯貝、京泉、上大田和、下大田和、勝瓜、谷田貝、三谷、西高橋、長島、西水沼、下延生、与能、大谷津、東田井、大郷戸、中、大沢、同内新福寺、小貫、上籠谷、氷室、下鷺谷、赤羽新田などであった。

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真岡城 芳賀城 余湖

真岡 小学校

学校名 通学区域 真岡小学校 荒町 一部を除く。 、田町 別図第4に示す区域を除く。 、台町、並木町一丁目、並木町二丁目、並木町三丁目、並木町四丁目、白布ケ丘、熊倉町 別図第5に示す区域 、熊倉一丁目、寺久保一丁目、大谷新町、西郷、荒町二丁目、荒町三丁目 1番地1~1番地5、1番地18~1番地28、2番地1~2番地3、2番地6、2番地7、3番地1~3番地12、4番地、5番地1~5番地4、6番地1~6番地8、7番地1~7番地10、8番地2、8番地4、8番地5 、別図第2に示す下大田和の一部 真岡東小学校 荒町 一部 、荒町三丁目 1番地6~1番地17、1番地29、2番地4、2番地5、8番地1、8番地3、9番地1~50番地13 、荒町四丁目、東光寺一丁目、東光寺二丁目、東光寺三丁目、田町 別図第4に示す区域 、東郷、中郷、別図第1に示す島の一部 真岡西小学校 熊倉町 別図第5に示す区域を除く。 、熊倉二丁目、熊倉三丁目、大谷本町、大谷台町、上高間木、上高間木一丁目、上高間木二丁目、上高間木三丁目、西高間木、下高間木、下高間木一丁目、下高間木二丁目、高勢町一丁目、高勢町二丁目、高勢町三丁目、八木岡 亀山小学校 亀山、亀山一丁目、亀山二丁目、亀山三丁目、鬼怒ケ丘、鬼怒ケ丘一丁目 山前小学校 小林、八條 一部を除く。 、根本、青谷、須釜、君島、南高岡、道祖土、東大島、東沼、西沼、島 別図第1に示す区域を除く。 西田井小学校 八條 一部を除く。 、鶴田、西田井 大内中央小学校 飯貝 第1 、京泉 第1 、田島、上大田和、堀内、下大田和 別図第2に示す区域を除く。 、別図第3に示す下籠谷の一部 大内東小学校 飯貝 第2、3 、京泉 第2 、原町、清水、赤羽 大内西小学校 下鷺谷、上鷺谷、下籠谷 別図第3に示す区域を除く。 中村小学校 寺内、若旅、中、粕田、寺分、加倉、下大沼、下大沼一丁目 1番地を除く。 、下大沼二丁目、大沼、上大沼、上大沼一丁目、上大沼二丁目、松山町、茅堤、小橋、伊勢崎 長田小学校 下大沼一丁目の一部 1番地 、長田、長田一丁目、長田二丁目、長田三丁目、長田四丁目、長田五丁目、柳林、勝瓜 長沼小学校 久下田の一部 1840番地 、下大曽の一部 803番地 、長沼、大道泉、鷲巣、西大島、上江連、古山、青田、堀込、砂ケ原、上大曽 1686番地を除く。 、上谷貝、谷貝新田 久下田小学校 久下田 1840番地を除く。 、久下田西一丁目、久下田西二丁目、久下田西三丁目、久下田西四丁目、久下田西五丁目、久下田西六丁目、久下田西七丁目、さくら一丁目、さくら二丁目、さくら三丁目、さくら四丁目、境、程島、長島、下大曽 803番地を除く。 、石島、大根田、阿部品、上大曽の一部 1686番地 物部小学校 物井、横田、大和田、沖、鹿、桑ノ川、高田、反町、水戸部、根小屋、三谷、阿部岡 学校名 通学区域 真岡中学校 台町、並木町一丁目、並木町二丁目、並木町三丁目、並木町四丁目、白布ケ丘、熊倉町 一部を除く。

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